二つのひがん
岡田孝裕  昭和四十年代以降広島県は長い間新空港の建設を模索していた。 広島市の市街地の近くにあった旧空港は常に騒音公害が問題となっており移転の必要に迫られていた。 大型ジェット機時代の到来や軽薄短小型への産業構造転換を考えた場合、 新空港の建設は時代の要請であり県勢発展の最重要課題の一つであった。
 そんな背景のなか昭和58年4月私ははからずも町長に初当選したのである。 当選ニヶ月後、県は新空港の予定地を隣町の豊田郡本郷町用倉地区に決定し大きく報道した。 当時検討されていた候補地は何カ所かあったが広島市から最も遠く、 330米の山の上の現在地に決定するとは思ってもみなかったのが周辺地の思いであった。
 それが十年後の昭和68年(平成5年)に開港を目指すということである。 広島県のほぼ中央に位置し、災害も尠なく気候にも恵まれている本町は 平均一町歩の田んぼと五町歩の山林を所有する農家が米作りに励み、 安定した生活を維持する純農村であったがご多聞にもれず高度成長の波に洗われ、 若者の流出による過疎化・地域活力の低下に悩み、 加えて合併町村の通弊である地域間の対立が事ある毎に噴出する状況で、 私の選挙も南北戦争と揶揄されたものである。こんなことでは良い町づくりはできない。 町民の意識をプラス志向にし、一体感をつくるにはどうしたらよいか、 将来に対する夢を皆んなで共有したいと選挙戦を通じて深く考えさせられたのである。
 その様な苦悶の中での新空港の立地決定であった。これは絶好のチャンスだ。 就任して直ぐこんな大事業が隣りで展開されるとは、自分は新空港の申し子かも知れない。 これからは空港(臨空)を視点に町づくりの出来る時代だ等色々の思いが浮かんできた。 そのために確りした計画をつくり、町民が親しみと自信のもてるキャッチフレーズを作って内外にPRし、 沈滞した空気を一掃しようと決意した。そのためには町長自ら積極的に行動し、 良いと思われることはがむしゃらに取組み率先して町づくりの尖兵になることにした。
 長い討議や検討の結果キャッチフレーズは「臨空田園の都市−だいわ」と決定した。 臨空性・田園性・都市機能の三つをキーワードにこの目標実現のため町民一体となって努力する態勢ができ上った。
 しかし難題は最初のキーワード「臨空性を生かした町づくり」の具体策である。 新空港は本町の町境から2.5kの至近距離にありながら、 その間には深さ300米の峡谷が横たわり人を寄せつけない状況にある。 私の町から空港に行くには標高280米を下って、またそれだけ登って行かねばならない。 私は町境の山頂に立って指呼の間にある新空港の現地を眺めながら、 如何にしてこの峡谷に橋を架けることができるか。これが実現しなければ本町の展望は開けない。 目に見えるこの大事業の実現こそ目に見えない町づくりの実現と一体だと確信したのである。
 昭和63年正月に温めていたこの構想を「二つのひがん」という表題で発表した。 それは「彼岸」と「悲願」の二つの言葉である。 私たちの此岸(大和町)から彼岸(新空港)に辿り着きたいと願う悲願なのである。 長さ800米・高さ195米の巨大大橋となる東洋一の夢の懸け橋は 平成六年広島中央フライトロードとして着工され、続いて地域高規格道路に指定され一歩ずつ実現に向かっている。
 「二つのひがん」を発表して七年、こんなに早く実行されようとは思っても見なかったが地域の願いを理解し、 支援して戴いた多くの方々の協力でここまでくることができた。 今はすでに職を去られたそれ等の方々の顔が浮かんでくる。 十年一日の如く同じ思いを抱き続けていけば必ず道は開けるのだという事を体験できた喜びは何物にも替え難いと思う。
 執念こそ町づくりに最も必要な要件のように思えてならない。 四年に一度の選挙を経る宿命の中で執念の炎を燃し続けなければ何事も成就はできない。 私達には"地域に住む人達がこの地に住むことが何よりの喜びと感じて戴ける町づくり"こそ大切にする使命がある。
 マックス・ウエーバーの有名な言葉"不可能と考えられることでも「それにもかかわらず」という不屈の精神"が求められている。 夢の懸け橋は今ようやく20%の進捗率である。ひがんの実現に執念の炎を燃やす日々はこれからも続くのである。
大和町元町長 岡田孝裕