びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(35)
                                 (福山市御幸町) 〈261〉

志川滝山城址
 神辺合戦は、天文十八年(一五四九)九月、城主山名理興が城を脱出、出雲に逃走したため、大内氏の勝利に終わり、城には大内氏の重臣青景隆著が城代として入った。
 神辺城の陥落で平穏に帰すかと思われた備後地方だが、天文二十年(一五五一)九月、突如出来した大事件によって再び戦乱の巷に投げ込まれた。中国地方最強の戦国大名だった大内義隆が家臣陶晴賢の下剋上によって殺され、大内氏は一時混乱状態に陥るのである。
 この事件を見た尼子晴久は、直ちに勢力挽回に着手した。まず、将軍足利義輝に備後など中国地方六カ国の守護職を要求、これを認めさすことに成功した。
 将軍のお墨付きを得た尼子は、再び中国山脈を越えて南下の姿勢を示した。備後の国衆の中にもこれに応ずるものがいた。中でも備後南部の足場を失い、備後北部に押し込められていた宮氏はこれを絶好の機会と捉え、軍勢を南下させた。宮氏が勢力挽回の拠点としたのが加茂町北山の志川滝山城であった。
 郷土史書の多くがこの時、正戸山も攻められ落城したと伝えるが、大内義隆滅亡の混乱に乗じて宮氏の一族が再び正戸山に拠ったことは十分に考えられることである。
 宮氏と毛利氏の決戦は、天文二十一年(一五五二)七月二十三日に行われ、宮氏も防御に努めたが城は落ち、宮氏の敗北に終わった。正戸山に拠った宮氏も主力の敗北によって抵抗するすべなく、再び没落の道をたどったに違いない。
 翌天文二十二年(一五五三)春、今度は庄原甲山城主山内隆通、三若(三次市)旗返城主江田隆連が尼子に応じ、備後を舞台にした最後の尼子毛利の合戦が行われた。
尼子晴久画像
 既に安芸の国人衆の盟主としての地位を固めていた毛利氏は、尼子の大軍を迎えても動揺しなかった。五月二十日、泉の萩が瀬(庄原市口和町)で尼子の軍勢を破った毛利勢は、七月、江田氏の端城高杉城を攻め落とした。高杉城は尼子の本隊が入城した甲山城と旗返城の中間に位置し、同城の陥落は江田氏の孤立を意味した。隆連は十月まで旗返城で頑張ったが同月十九日遂に城を捨てて逃走。鎌倉以来の名族江田氏は滅亡した。
 旗返城の陥落によって、尼子晴久も在陣の意義を失い出雲に兵を引いた。尼子の敗北で最後まで尼子方に残っていた山内、久代宮の両氏も毛利氏と講和交渉を進め、天文二十二年末には相次いで毛利氏に帰属した。こうして、応仁の乱以来百年に及んだ備後の戦乱もようやく終息に向った。備後南部では、大内氏の代官が逃げ去った後の神辺城には毛利氏の支援を得た杉原豊後守理興が入ったが、弘治三年(一五五七)春に病死。播磨守盛重が理興の後家毛利氏を娶って神辺城主になった。
 杉原氏が神辺城主となると、正戸山にも杉原氏の重臣が城番に入ったと思われるが、時勢の推移によって次第に放棄され自然の山に帰っていった。山城としての正戸山の終焉である。

備陽史探訪の会
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