びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(34)
                                 (福山市御幸町) 〈260〉

宮景盛画像
 もし、この度の推論、神辺合戦の最中、今大山城は落城せず(或いは落城したとしても)、宮上野介家は存続したとするならば、問題になるのは同家のその後である。江戸時代の郷土史書が伝えるように、「宮兄弟、神辺杉原左衛門と戦い」敗北して滅亡したのであろうか。神辺城には、山名理興の後、杉原播磨守盛重が入り、毛利方の重鎮として備南一帯を支配した。宮氏はこの盛重に滅ぼされたのであろうか。
 一方、宮次郎左衛門尉や宮隆信に関しては、その後も活躍したことを示す断片的な史料が残っている。まず、宮次郎左衛門尉だが、「景盛」がその実名とすると、備北で活躍した久代宮景盛がその後身である可能性が浮上する。今まで、備北の宮氏と備南の宮氏の研究は別々に行われ、その関連を考察することは稀であった。が、考えてみると狭い備後である、もし同一の名字と実名を有するものが同時に在世する場合、これを別人と考える方がおかしいのではあるまいか。
 備北の宮景盛は、慶長七年(一六〇二)七〇才で没しているから、天文二年(一五三二)の生まれとなり、天文一七年(一五四七)は一五才、城主として采配を振るうには当時としては十分な年齢である。
宮隆信書状(尾多賀文書)
 「備後古城記」に中条一帯の山城主として現れる宮次郎左衛門尉景盛が、備北の宮景盛と同一人物であったことを示唆するのは、同じ「備後古城記」に「東右衛門」の名があることである。東氏は宮氏の庶流で、「芸藩通志」などに、宮景盛の宿老で、奴可郡蟻腰城主であったとされる。備北の宮氏が尼子方として南下し、中条一帯に布陣、大内方と戦い、その軍勢の中に東氏がいたと考えればいいだろう。久代宮氏では、景盛の孫広尚が「次左衛門尉」、曾孫(名欠)が「彦次郎」を名乗っており、これは宮上野介家の伝統を引き継ぐものであったと考えられる。
 宮若狭守隆信が天文一七年、領内の寺社領の安堵を行なったことは先に述べたが、その直後、刑部少輔「隆信」なる人物の活躍が知られる。天正年間(一五七三~一五九三)備南の有力国衆として頭角を現す有地氏の二代美作守隆信のことである。
 この隆信も今までの研究では、有地氏の二代目として記述されるだけで、宮上野介家との関係は考察されてこなかった。だが、この人物も先に論じた宮景盛と同様、名字と実名が同じでほぼ同時に在世した人物は同一人物と考えて良いならば、宮若狭守隆信と同一人物と考えるべきであろう。有地隆信の場合は、久代宮景盛の場合とは違い、本拠とされる福山市芦田町と、神辺町中条は指呼の間である。別人と考える方がおかしい。
 宮上野介家は神辺合戦では滅亡せず、何らかの事情で備北(久代)と備南(有地)の二家に分裂し、国衆として新たなスタートを切った、こう考えたい。

備陽史探訪の会
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