びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(33)
                                 (福山市御幸町) 〈259〉

有地隆信書状
 江戸時代でもそうだが、領地の安堵は、領主の代替わり、或いは、戦乱が終息した後のように、改めて領地を確認するという意味があった。
 とすると、宮若狭守隆信にとって「天文一七年(一五四八)」は如何なる意味を持っていたのか。先ず考えられるのは「代替わり」である。宮上野介家の戦国前期の当主、宮上野介実信は天文十年(一五四一)まで在世の証拠がある(備中平川家文書)。天文一七年は其の7年後だから、常識的に考えれば、天文一七年、隆信は実信の後を継いで宮上野介家の当主となり、領内の神社仏閣に対して、一斉に安堵状を発したと見るべきであろう。「安那郡社領寺領」によると、年代は明記されていないが、中条・道上の神社仏閣は、ほとんど宮若狭守隆信の寄進を受けており、それらは道上浄光寺のそれと同じく天文一七年の「安堵」であったと考えられる。
 だが、ここで考えなければならないのは、「天文一七年」は、「神辺合戦」が大詰めを迎えた年であったことだ。
 大内氏は前年の天文十六年(一五四七)四月、神辺城外郭の諸城を落とした後、翌天文一七年五月一日、最後の障害となっていた宮次郎左衛門尉の要害を攻め落とし、同年六月、遂に神辺城に対して総攻撃を決行した。結局、この攻撃では城は陥落しなかったが、以後、山名理興は城内に立て籠もるのみで、戦いは持久戦に移行した。
 宮上野介家の継嗣と考えられる宮次郎左衛門尉が山名理興に味方して大内勢と戦う一方、同じ年に同家の若狭守隆信が家督を相続して領内の寺社に対して「安堵状」を発する、これをどのように理解すれば良いのか…。
「備後国古城記」 上岩成村の条
 一つは、「西備名区」等の江戸時代の文献に記された「(宮)兄弟不和の事ありて云々」はこの出来事の反映と見て、神辺合戦の最中、宮上野介家の内部で家督をめぐる抗争が起り、早くから大内家との関係の深かった若狭守隆信が大内氏に通じたのに対し、次郎左衛門尉は飽くまで尼子氏に味方し、遂にその要害を攻め落とされてしまった、こう考えるのである。
 この場合、若狭守隆信と次郎左衛門尉の関係が問題になるが、郷土史書の伝承を信じれば「兄弟」ということになる。
 また、次郎左衛門尉と若狭守隆信は同一人物であって、居城(この場合は今大山城)を攻略された次郎左衛門尉は大内氏に帰服し、許されて若狭守に任官、大内義隆の一字を拝領して「隆信」を名乗った、ということも考えられなくもない。その場合、天文十一年大内氏に味方し、出雲遠征に従軍した宮若狭守との関係が問題になるが、別人と考えれば実信―若狭守某―次郎左衛門尉若狭守隆信という、宮上野介家の戦国期の系譜が復元出来る。

備陽史探訪の会
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