びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(32)
                                 (福山市御幸町) 〈258〉

安那郡領主領
 大内義隆が、あえて「宮次郎左衛門尉要害」と記したのは、或いはそれが一つの山城ではなく、複数の城塞群を宮氏が守備していたためかも知れない。神辺町の中条谷周辺には、以前に紹介した 「中条城塞群」と呼ばれる小規模山城の集団があり、城主に宮次郎左衛門尉の名を伝えている。
 その場合、問題になるのは宮上野介家の居城であつた「今大山」との関係である。「毛利家文書」に出てくる宮次郎左衛門尉要害を今大山に充てる説もある。実は筆者もその一人であつた。
 だが、もしこの要害が今大山城を指すのであれば、なぜ義隆は書中で「今大山落居」と書かなかつたのか。今大山城は、備後屈指の国人衆であつた宮上野介の居城として知られており、上野介を直接示すのを憚って、上野介のことを「今大山」と表記する場合もあつた(「閥閲録」六七)。宮次郎左衛門尉要害が今大山城であつたならば、率直に今大山落居と記したはずである。
 すると、問題になるのは、この合戦の最中に置かれた今大山城の立場である。記録にはないが、やはり、大内・毛利勢によって攻撃され、攻め落とされたのであろうか。
 その可能性もある。だが、今大山ほどの著名な山城である。もしそうであれば、それを示す記録が残っていいはず。今大山城の落城の記録が無いのは、「落城しなかつた」 からではなかったのか。
今大山城下に残る中世の石塔
 そのことを傍証する史料が一つ残っている。寛永一六年(一六三九)の「備後国安那郡寺領社額」だ。この文書は神辺の社家徳永家に伝わった文書で、寛永一六年、福山藩が領内の社寺に命じて提出させた寺社領の申告書の、安那郡分の写本である。
原本は失われているが、「水野記」所収「寛永寺社記」の元になつたもので信用して良いものだ。
 この記録の中に、道上の浄光寺願了が「御定めに任せ言上」した文書があり、その中に次の記載がある。
「天文拾七年二宮若狭守隆信殿御時代」「右の十貫を御取上げ成され、田島壱町弐反大古帳にて下され候、則、地坪御書付成され、前々の如く寺役等勤むべきと、御判を極められる也候て下され候、此の証文は今に御座あり(下略)」
 内容は浄光寺には元々十貫の寺領があつたが、天文一七年(一五四八)宮若狭守隆信が十貫の寺額を没収し、改めて田島壱町弐反大を浄光寺に寄付したこと。土地の詳細を示す 「地坪」や「前々の如く寺役を勤べきこと」を命じた隆信の判物も所持していることなどを藩府に申告したもので、文書の写しは現に浄光寺に伝わつている。
 天文一七年は、宮次郎左衛門尉の要害が落城した年である。同じ年に今大山城主と推定される若狭守隆信が寺領を改めて寄進しているのは如何なる理由か。
次に此の問題に迫ってみたい。

備陽史探訪の会
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