びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(30)
                                 (福山市御幸町) 〈256〉

 伝承は別にして、正戸山城と宮氏の運命を示唆する史料としては、先に紹介した『閥閲録』一〇四湯浅権兵衛差出、(天文十六)六月二日付大内氏年寄衆連署書状と、次の掲げる大内義隆書状がある。

去る月朔日(一日)、宮次郎左衛門尉要害落去の刻み、即時中途に至り出張の由に候、毎事ご馳走の通り、喜び入り候、猶隆兼、隆著申すべく候也、恐々謹言
 六月十六日 義隆(花押)
    毛利備中守殿

 当時の書札例に則り、従三位の高位にあった大内義隆の書状は簡素なもので、大内氏が宮次郎左衛門尉の「要害」を攻め落とした際、毛利氏も「中途」まで「出張」して「御馳走」したことに対し、義隆が謝意を述べたもの。子細は家臣の弘中隆兼と青景隆著が伝えるとある。我々が知りたいのは隆兼と隆著の「副状」の方だが、こちらの方は伝わっていない。
 この書状の問題は、書状形式であるため、年号が欠けていることと、大内氏が攻め落としたという「宮次郎左衛門尉要害」が具体的にどの山城を指すか明記していないことだ。
 年号に関してはある程度の推定が可能である。まず、大内義隆の花押の変遷から天文一六年(一五四七)以降のものと断定できる。また、宮氏の要害が落城したことから大内氏の神辺城総攻撃が可能になったことからすると、この書状は天文一七年を下限とする。「大日本古文書」家わけ第八「毛利家文書」の編者はこの文書の発給年を(天文一七年カ)としているのはこれらの事情による。
南から見た正戸山 
 この文書の発給年を天文十六年とするか、或いは同一七年とするかの解釈は一に「宮次郎左衛門尉要害」の比定に掛かっている。解釈の仕方によっては、『福山市史』上巻の著者河合正治氏が推定しているように、同要害を正戸山に比定することも可能である。
 最初にこの文書を天文十六年のものとしてみよう。
 すると、先に紹介した(天文十六年)六月二日付大内氏年寄衆連署書状との関連が問題となる。同書状は、天文十六年四月二十八日の坪生要害合戦の際、毛利氏が「勝渡山面」に出張した時、湯浅氏が毛利氏と「同陣」し、大内氏に「馳走」(協力)したことを述べたものだ。
 一見するとこの二通の書状は関係があるように見える。だが、六月十六日の義隆の書状に「勝渡山」の名が見えないのは不審である。さらに、大内氏の年寄衆が毛利氏より前に湯浅氏に宛てて連署状を出すのは如何なものであろうか。この時期の毛利氏は既に備後安芸の大内方国人衆の盟主の地位にあり、傘下の国人衆宛の大内氏の文書は毛利氏を通じて国人衆の手元に送られるのが通例である。また、主君の書状より先に年寄衆の副状が出されるのも不自然である。よって、この文書の発給年は天文十六年ではなく、翌一七年とするのが妥当だ。

備陽史探訪の会
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