びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(28)
                                 (福山市御幸町) 〈254〉

 正戸山城の落城に関しては、二つの伝承が伝わっている。一つは、城主を宮刑部少輔信政入道正味とし、天文二十年(正しくは天文二十一年)七月の志川滝山合戦に際して、毛利勢によって攻め落とされたとするもの。すなわち、『西備名区』巻三十五安那郡下加茂村勝戸山城のところに、
「(城主)宮刑部少輔信政入道正味、同次郎
 伝に云う。天文年中、雲州尼子の旗下に属す。よって大内家より同二十年(一五五一)七月、毛利元就、志川滝山城攻めの時、馬屋原備前守、桑原越中守などに、吉川勢を添えられ、七百余騎にて攻めしむ。此の城要害よければ容易に寄り付く事叶わず。
勢を三手に分け、一手は往還通りを西の方より押寄せ、一手は東へ廻り、是も往還通りを押寄せ、又一手は東北の山へ取り上がり、少し小高き所より火矢を射懸けて責けるに、残暑の比なれば屋根かはき居ける故、忽ち、城屋に火移りて、一片に燃え上がる。城内の者共、防がんとするに水乏しく、煙に咽んで詮方なく。城を払って麓の方へ打て出、さんざんに戦いしが、寄せ手東西に分かれ居れば、前後より取り囲み攻め立てけるにぞ、正味父子討死しける。その隙に残徒、東の手を切り抜けて、昌灯山(正戸山)をさして走りけるを、三手一緒になり、追い駆けて悉く討ち取る。猶も残りし者、西光寺と云う寺へ逃込みしを追うて残り無く討取、寺をも破却しけり。正味父子をば吉川勢の中へ首を取ると云う(一部仮名遣いを現代風に改めた)」
 年代のことは後ほど考察するとして、戦いの概要は、攻め手は三手に分かれて攻め寄せ、東北の山上に陣を張った一隊から射掛けた「火矢」によって城が炎上。煙に咽んだ城兵が堪らず打って出たところを攻め手が取り囲んで討ち取り、城主父子もこの乱戦の中で討死、城は落城したという。
 戦いの描写は、現地形を観察してのもので、実情に合致した部分もある。城が存在した当時、城山の周囲、特に北から東にかけては沼田が広がり、城に近づくのは城の南麓を東西に走る石州街道沿いしかないという状況の中で、攻め手は街道を東西から攻め寄せた、というのは十分ありえることである。だが、一手を東北の小高い所に登らせ、火矢を射掛けたというのはどうであろうか。「東北の小高き所」というのは、現在「深安団地」となっている標高三十七メートルの「洲成山」のことと推定されるが、正戸山山頂との間は約三百メートルの距離があり、ちょっと距離がありすぎるように思われる。そんなことをしなくても、山麓から射掛ければ十分届くはずだ。この物語の作者の創作と見て良いだろう。
 年代も天文二十年では遅すぎる。後に考証するが、宮氏の城が落城したのは天文一七年(一五四八)五月とする確かな証拠がある(毛利家文書三〇七号)。正戸山の落城は天文十六年(一五四七)四月から、同一七年五月の間とするのが正しい。

備陽史探訪の会
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