びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(26)
                                 (福山市御幸町) 〈252〉

北から見た正戸山
 備後衆の拠点神辺を攻めるに際し、大内・毛利側の用意は周到を極めた。先年(天文一二年)の富田月山城の合戦のように、地固めをせず、敵中深く侵攻して手痛い反撃を受ける轍を踏まない為である。
 神辺は、手城、大門を外港として、備中や讃岐の細川氏と連携していた。そこで、大内氏は海賊衆の因島村上氏に鞆浦内十八貫文の土地を与え、大門、手城沿岸の備後衆の動きを見張らせた(因島村上家文書)。
 内陸では毛利氏の動きが活発であった。天文十五年(一五四六)五月、世羅郡の「堀越惣中」が元就に起請文を提出し、服属を誓った(閥閲録四六)。堀越惣中とは、世羅郡中部の京丸・堀越一帯に居住した地侍の集団で、万福寺を中心に団結していた。これを元就は調略によって味方に引き入れた。惣中には先に宮実信と主従関係を結んでいた永末三郎左衛門尉もいたことから、本来この惣中は宮上野介家の支配下にあったと見ていい。
 元就はまた、国人衆を分裂させることによって、備後衆の団結を突き崩していった。山田の渡辺氏は当初神辺に出仕していたが、天文十三年頃には毛利氏に従っており、その居城一乗山には毛利氏から援軍が派遣された。山手銀山城の杉原氏も毛利氏の調略を受けて、天文十五年頃には神辺城を脱出して大内方に走った(浦家文書)。
 正戸山や今大山の宮氏に対しても、毛利氏の調略の手は伸びていた。

堀越惣中の結束の中心であった万福寺跡(世羅町堀越)
 毛利氏と宮氏の合戦では、『陰徳太平記』などに記載された天文三年(一五三四)の「備後宮城合戦」が有名である。しかし、この合戦が天文三年に行われたことは証拠が無く、また、当時の情勢から天文三年に毛利氏が備後南部まで進出することは到底ありえないことで、軍記物語の作者の創作と判断されている。
 だが、合戦の年代を天文一五年から一七年(一五四八)の時期まで下げれば俄然真実味を帯びてくる。実際、宮氏の惣領筋の一つである宮上野介家はこの時期に毛利氏の攻撃を受けて没落しており、これが歴史上の「備後宮城合戦」と考えればいいのである。
 宮氏と毛利氏の戦いに関する伝承では宮氏が兄弟で敵味方に分かれ、一方が大内氏に味方し生き延びたとするものが多い。例えば『西備名区』では、新市村亀寿山城の項で、宮左衛門佐政信は「宮下野守元信の舎弟なり、天文年中、兄弟不和の事ありて、国を立ち退き、防州に赴き、大内家に寓居す」とあり、また、有地氏の初代宮石見守清元は、「下野入道と兄弟不和の事有て当城(亀寿山城)を退去し、宮の領地有地を押して領し、有地に小城を構え居す」(前掲書)とある。亀寿山城を宮上野家の本城今大山城に置き換えれば、万事筋が通るのである。
 備後衆の主力であった宮上野介家は軍事的な攻勢を受ける前に、元就の調略によって一族が分断されていたと見て良いだろう。

備陽史探訪の会
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