びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(25)
                                 (福山市御幸町) 〈251〉

鷲尾山
 天文十一年(一五四二)五月、大内氏の軍勢を撃退した尼子氏は、味方に転じた国人衆を糾合して各地で攻勢に転じた。
 備後で尼子方の盟主となったのは神辺城の山名理興であった。正戸山城を含めて一帯を支配していた宮氏も、若狭守が理興と同じく富田月山城に走りこんでおり、当然その軍中にあった。この軍勢には山田の渡辺氏や、山手の杉原氏なども加わっており、大内方からは「備後衆」と呼ばれている。ここに来て備後の国人衆もやっと一致団結、戦国の荒波を乗り切ろうとしたことが分かる。
 理興を中心とした備後衆の勢いは当初相当なものがあった。義隆の出雲敗退から一ヶ月、六月には鷲尾山城が尼子方の手に落ち、城主木梨隆盛は出雲に送られ、月山城でとらわれの身になった(木梨先祖由来)。木梨領に隣接する古志氏の領内(福山市本郷町)が攻撃を受けたのもこの頃で、八幡神社をはじめとする領内の神社仏閣はこの時ほとんど灰燼に帰した(水野記など)。
 備後南部の一大勢力であった木梨氏を下した備後衆は、ここから御調川沿いに西進し、安芸に向った。この地域の領主小早川・渋川両氏は依然として大内氏に属しており、天文一三年(一五四四)まで、備後衆を中心とした尼子の軍勢と度々干戈を交えた(安藤文書など)。
 備後衆に呼応した出雲尼子氏の動きも活発で、天文一三年三月、甲奴郡の田総(庄原市総領町)に南下した尼子の軍勢は、ここで毛利氏の軍勢と衝突、激しい戦いとなった(毛利家文書など)。また、同年七月には尼子晴久の叔父尼子国久を中心とした新宮党の軍勢が三次郡布野に進出して毛利氏の軍勢と激突、元就はここで「布野崩れ」と呼ばれた生涯で数少ない敗北を喫した。
三原市大和町の椋梨城跡、備後衆はこの辺りまで進撃した。
 だが、尼子氏の攻勢もここまでであった。体制を立て直した大内方は毛利元就を前線司令官として、じわりじわりと尼子の前線を押し返していくのである。
 南下する尼子勢との合体を阻まれた備後衆は苦境に立たされ、神辺城に結集して大内氏の攻勢を凌ごうとした。ここに「神辺七年の役」と称された神辺合戦が始まった。
 理興を中心とした備後衆は、各々の山城の守りを固めることで大内勢に対抗しようとした。神辺南方では沿岸部の海賊衆が手城や大門に拠点を築いて大内氏の来襲に備えた。西国街道沿いに東進して来る軍勢に対しては山手の銀山城がその第一線の砦となった。
 神辺城の北方、安那中条の今大山城に拠って理興の後ろ盾となっていた宮上野介家は、新市から駅家・加茂にかけて多くの出城を築いて、大内方の攻撃に備えた。両宮の一方宮下野家は既に滅亡しており、一門の中には大内方に通ずるものもあった。本来、品治郡宮内辺りまで同家の勢力は及んでいたはずだが、この頃にはその勢力は神辺平野の中心岩成辺りまで後退していた。正戸山が再び歴史の表舞台に登場するのは、この後のことである。

備陽史探訪の会
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