びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(24)
                                 (福山市御幸町) 〈250〉

本丸に建つ石碑
 天文九年から天文十一年にかけては、備後地方を恐ろしいほどの速さで大きな歴史のうねりが襲った時代である。その一波は先に述べた尼子の吉田郡山城攻撃とその敗退であった。
 尼子の敗退を見た国人衆の多くは尼子を見限り大内方に味方した。その中には尼子の本国出雲の国人衆もいて、大内義隆の目には尼子討伐の絶好の機会に映った。この機会を逃せば再び尼子が復活するかもしれない。
 こうして大内義隆の尼子討伐が始まった。天文十一年(一五四二)正月十二日、周防山口を立った大内義隆は石見から出雲に入り、先ず赤名(島根県飯南町)の瀬戸山城を攻撃した。七月、激戦の後瀬戸山城を攻略した大内勢は、尼子氏の本国出雲国内に深く侵攻。翌天文一二年(一五四三)正月、尼子氏の本拠富田月山城を見下ろす京羅木山に本陣を置き、月山城総攻撃の体制をとった。
 だが、これは尼子氏の策略であった。大内勢を本拠の月山城近くまで誘き寄せ、敵の糧道を絶ったところで一挙に殲滅する。出雲国内に深く侵攻されながら抵抗らしい抵抗をしなかったのもこの作戦のためであった。しかも、大内方に寝返って侵攻してきた備後・安芸・出雲の国人衆にも尼子の魔の手が伸びていた。尼子・大内の戦いは、ここに来て尼子優位の形勢が見えてきた。大内勢は月山城の城壁に迫るどころか、反撃に出た尼子勢に散々斬り立てられる始末であった。尼子の実力は衰えていない。これを見た大内方の国人衆に動揺が始まった。すかさず尼子の魔手が吉川、山内、山名氏など尼子氏に縁の深かった国人衆に伸びた。
月山城本丸から望む   大内義降が本陣を置いた京羅木山
 「ここで尼子に味方すれば恩賞は思いのままである」
 四月晦日、三沢、三刀屋、本城、吉川の手勢は、月山城の城門に迫ると見せかけて、開け放たれた城門の中に吸い込まれるように入っていった。京羅木山の大内氏の本陣はこれを見てどよめきが起った。「これは尼子の策略だったのか…」
 月山城に走りこむ国人衆は後を絶たず、義隆の周りを固める国人衆は毛利、平賀、三吉などわずかとなった。正戸山一帯を支配した宮若狭守も神辺城の山名理興と共に尼子に味方し、既に月山城内にいた。大内氏の完敗であった。
 五月七日、京羅木山の本陣を撤した大内義隆は、松江市東出雲町の揖屋から船に乗り石見経由で本国に逃げ帰った。ここで悲劇が起った。義隆の嗣子晴持も義隆に続いて船に乗ろうとしたところ、我先にと船べりにしがみついた味方の兵によって船は転覆、海中に投げ出された晴持は弱冠二十歳であえない最後を遂げたのであった。毛利元就も、この絶体絶命の窮地を家臣の身代わりに寄って救われ、命からがら安芸郡山城に逃げ帰った。

備陽史探訪の会
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