びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(22)
                                 (福山市御幸町) 〈248〉

月山城山中御殿跡
 尼子氏の全盛は天文七年(一五三六)から天文九年(一五三八)にかけてであった。経久の跡を継いだ孫の詮久(後の晴久)は、備前・美作・播磨に侵入、「何れも敵は無く候」(「大館常興日記」)と豪語した。宮実信などの宮氏一族が、「天文日記」に登場するのは、丁度この頃であった。
 新進気鋭の詮久は、さらに大内義興の先例に倣って上洛、将軍を擁して天下に号令せんとした。
 だが、その場合、詮久にとってどうしても打倒しておかなければならない人物がいた。吉田郡山城の毛利元就である。元就は一時尼子に従った時期もあったが、大永五年(一五二五)大内方に転じてからは一貫して大内氏の先鋒として活躍し、尼子氏の背後を脅かしていた。
 毛利氏の打倒を決意した尼子詮久は、天文九年(一五四〇)備後・安芸に兵を進め、吉田郡山城を目指した。同年六月、備後口からの攻略を意図した尼子氏は、三吉氏の協力を得て、安芸に進軍、毛利氏に組する宍戸氏の属城岩屋城を攻めたが敗北、九月、改めて石見路から郡山城を目指した。
 九月四日、三万を呼号した尼子の大軍は、吉田郡山城下に迫ったが、要害堅固な郡山城を攻略するのは用意で無く、同城の南に対面する青山・三井山に本陣を移し、腰を据えて元就が音を上げるのを待った。これに対し、元就は正面から尼子氏と対決するのを避け、大内氏の援軍を待つ作戦に出た。
 一二月三日、大内氏の援軍一万が郡山城南東の山田中山に着到。意気大いに揚がった毛利勢は、翌年正月反撃に転じた。長期の滞陣で意気阻喪していた尼子勢は、この攻勢を凌ぐことができず、同月一三日、遂に敗退、雪崩をうって出雲に敗走した。
尼子が本陣を置いた青山三井山
 尼子氏の敗北は、備後・安芸・石見三国に劇的な変化を起こした。三吉氏をはじめとした多くの国人衆が尼子から大内方に転じ、尼子氏は一転して大内氏の攻撃を受ける立場となった。
 軍記物語『陰徳太平記』はこのことを、「げにや人の心の定めなさは、雲となり、雨となり、朝変暮化」と表現し、十三人の国人衆が一味同心して、大内氏に対して「義隆出雲へ御発向候はば」「先陣に進み申すべし」と願い出たとする。そして、この十三人の中に宮上野介家の人物と推定される「宮若狭守秀景」がいた。
 天文十年(一五四一)は、宮氏一族の中でも大きな変動が起った年であった。同年八月、宮下野守家が断絶し、その遺領を切り取った大内方の宮彦次郎が、幕府に対して「宮惣領職」の安堵を願い出たのである(大館常興日記)。
 宮彦次郎が「宮下野守跡」を切り取ったのが何時であったのかは、この史料では判然としないが、彦次郎が「大内方」であったのと、尼子の敗北から半年後の記録であることから、この事態が吉田郡山城の合戦の余波であったことは間違いない。「備後両宮」の一方の雄、宮下野守家は尼子に味方し、尼子の敗北と共に滅亡したと判断して良いだろう。

備陽史探訪の会
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