びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(20)
                                 (福山市御幸町) 〈246〉

山内氏居城甲山城址
 「備後両宮」としての宮実信の活動をもう少し詳しく見てみよう。
 断片的に実信の活動が知れるのは、大永末年(一五二七頃)と推定される、木梨氏と高須氏の和談の取り扱いである。
 年欠八月二十九日付宮実信書状によれば、高須氏と木梨氏の和談に対して、実信は「神村の内徳永分」を高須氏に与えようとしたが、「子細」があったので、「木庄西方」を高須氏に与える。もし、在地の給人共が反対するようなら、徳永をお渡ししよう。但し、その時には木庄西方は返して欲しい、と高須元盛に申し送った(閥閲録遺漏巻4の2)。
 ところが、翌年七月、「神辺和談」と呼ばれた国人衆の申し合わせによって、木庄西方は「先知行方」すなわち、木梨氏に返還されることとなった。よって、実信は高須氏に「三把(山波)村」を与えることによって、高須氏の不満を抑えようとした。このことを高須氏に申し送った年欠七月十日付宮実信書状(同上)によれば、この取り決めには「正法寺」が間に入っており、さらに、年欠九月二十七日付宮政盛書状(同上)によって、宮下野守家の政盛が重要な役目を果たしていたことが判明する。
 年欠九月二十七日宮政盛書状によれば、「三把村代官職」を預けられたのは正法寺で、政盛は正法寺に、公用は「先規の如く、御取り沙汰有るべし」と申し入れた。「公用」とあるからには、三把村は将軍家の料所で、政盛は奉公衆として、同所の管理を任されていたのであろう。
宮政盛書状 (山口県立文書館蔵)
 そして、年欠七月十日付宮実信書状によれば、高須氏に与えれれた三把村については、「猶子細正法寺申さるべく候」とあり、高須氏の三把知行は、政盛から正法寺へ預けられ、さらに正法寺から高須氏に預けられるという二段階の手続きを踏んで実現された。政盛と実信の関係は、この三通の文書上では確認されないが、京都の正法寺に対しては政盛が窓口になり、在地の高須氏に対しては実信が窓口になると言う、見事な連携プレーで、困難な国衆間の争いを解決した。これが政盛と実信、「備後両宮」の実力であった。
 備後両宮の一方として備後に君臨した宮上野介家であったが、実信の代になると、その支配関係の一部が史料上で確認出来るようになる。
 国人領主は一個の完結した権力機構である。配下の大小在地領主と封建的な主従関係を結んで、土地と農民を支配した。実信も封建領主として、家臣団に恩給を与え、見返りに軍役奉公を求めた。その一端が世羅郡の在地領主永末氏に与えた判物(閥閲録一六八)で確認出来る。実信が永末氏に与えたのは「利永之内田口分」と「備後国中条庄内時岡村内沢国名下作職」であった。「利永」は不明だが、中条庄内は現福山氏神辺町の東西中条にあたり、実信は「下作職」という、名主職のさらに下位にあたる権利まで自由に処分出来た地位にあった。世羅郡の在地武士を支配下に置き、在地の末端までその支配を貫徹していた実信の権力は、まさに有力国人領主に相応しいと言わねばならない。

備陽史探訪の会
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