びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(19)
                                 (福山市御幸町) 〈245〉

正戸山
 正戸山の所在する石成(岩成)庄上村一帯を本領とした宮上野介家の歴代の中で、その活動の様子が最も知れるのは十五世紀末に登場する実信である。
 実信の初見史料は、度々引用する年欠八月十七日付下津屋信秀外二十九名連署状で、十番目に「宮小次郎実信」として署判している。
 次に実信の名が登場するのは、永正六年(一五〇九)五月で、同月二一日、幕府で開催された「犬追物」で、父祖の先例を追って名誉ある射手を務めた。以後、翌永正七年(一五一〇)まで、度々犬追物の射手として記録に登場する(犬追物日記)。
 既に応仁文明の大乱から半世紀経ち、戦国の世を迎えたはずだが、実信が京都の幕府に出仕していたのには理由があった。
 明応の政変(一四九三)で将軍職を剥奪された足利義材は、各地を流浪しながら将軍復帰の機会を狙っていたが、幕府管領細川政元が家臣に暗殺された機会を捉えて周防から上洛、十一代将軍義澄を追って将軍職に復職した。勿論、義材にそんな実力は無く、周防の戦国大名大内義興の力を借り、義興に擁せられて念願を果たしたのである。中国地方の国人衆はほとんどこの軍に従い上洛、実信もこの軍勢の中にあった。同族の宮政盛も義材に従って上洛しており、宮氏は一族で将軍奉公衆としての最後の役目を果たしたのである。
 実信の在京は、永正六年から七年まで確認され、永正七年六月十二日の「犬追物日記」に射手宮上野介とあることから、この頃正式に家督を継ぎ、上野介に任官したものと推定される。
北から見た正戸山
 備後に於ける実信の活躍が知れるのは永正十五年(一五一八)八月のことである。この年、出雲から南下した尼子氏の軍勢が大きく動き、備後は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。尼子氏の軍勢として主に動いたのは、木梨氏を中心とした国人衆であったと思われ、沼隈郡山南や世羅郡赤屋が尼子勢の攻撃を受けた。
 この尼子氏の攻勢に対して、備後で国衆連合の中心となり、対応に当たったのが実信であった。実信は娘婿の渋川義陸と共に、国衆を指揮して尼子勢の撃退に務めた(閥閲録五七)。結果は不明だが、尼子氏の攻勢にいたたまれなくなった大内義興は同年十月、周防に帰国しており、実信の企図は一応成功したものと考えられる。
 国衆連合の盟主となった実信は、同族の宮下野守政盛と共に、再び「備後両宮」として、在地に大きな影響力を持った。
 大永六年(一五二六)、木梨氏が再び尼子方として兵を挙げ、備後南部は戦乱状態となったが、この時も実信は政盛や安芸の毛利氏などと協力して、木梨氏を抑え、和談に持ち込むことに成功した(閥閲録遺漏など)。

備陽史探訪の会
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