びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(18)
                                 (福山市御幸町) 〈244〉

城跡に建つ御統藍の碑
 若狭守貞兼について、もう少し考えてみよう。この人物で注目されるのは実名の下の字に「兼」を用いていることである。「兼」は、上野介家の始祖宮兼信の「兼」で、その後裔の中でも、惣領に継ぐ地位にあったことを示している。
 「兼」を実名の下に用いた人物としては、宮氏兼がいる。この人物は惣領満信の弟に当たり、次郎右衛門尉から備中守に任官し、幕府奉公衆として活躍したことは前に述べた。所領も服部や岩成下村などにあり、惣領に匹敵する地位にあった。
 幕府番帳を見ると、上野介家一門の所属番、四番衆には二家乃至三家の家筋が認められる。中でも、「康正二年造内裏段銭并国役引付」に計参貫文を納めた「宮彦次郎家」は永享・文安・長享・明応の各番帳に一貫して見られ、その家筋の有力候補である。「吉見文書」年欠八月一七日付下津屋信秀外二九名連署状には、若狭守貞兼と並んで宮彦次郎親孝が署判しているが、貞兼と親孝は家督と嫡子、或いは叔父甥の関係と考えればいいだろう。
 貞兼が上野介家の有力な一門で、彦次郎家の人物と考えれば、戦国中期になって急速に頭角を現した久代宮氏の出自も自ずから解けてくる。
宮一族と石山本願寺の仲介をした光照寺山門
 久代宮氏は戦国時代の天文年間(一五三二~一五五五)、それまでの宮下野守家に代わって奴可郡一帯の有力国人衆として姿を現す。具体的には天文一〇年(一五四一)八月、宮下野守家の遺領を切取、幕府に「宮惣領職」の安堵を願い出た宮彦次郎こそ久代宮氏と見ていいだろう。彦次郎親孝が久代宮氏の先代に当たることは、大富城三代目宮景盛の初名が「親尚」、更にその祖父に当たる高盛が天文元年(一五三二)頃、「盛親」と名乗っていたことからも推定できる。
 そして、久代宮氏と宮上野介家が近い関係であったことは、『天文日記』に登場する宮氏一族の序列からも想像できる。
 天文六年(一五三七)から八年(一五三九)にかけて、石山本願寺の門主証如光教は沼隈郡山南の光照寺を通じて宮氏一族と音信を通じた。すなわち、天文六年十二月十四日を嚆矢として、証如は尼子方に味方した備後渋川義陸、宮上野介、同上総介、同法城寺尾張守に太刀馬代などを送り情勢を探ったが、その表記の仕方から、この四人は互いに密接な関係にあったことが推測されるのである。
 『天文日記』によると、宮上野介は「蓬雲軒(渋川義陸)舅なり」とあり、音物も上野介が最も重く、次いで上総介、同法城寺の順になっている。当初、この音物の差は勢力の大小を現していると考えたが、そうではあるまい。上野介と上総介、同法城寺の一族内での地位を表していよう。つまり、この三家は上野介家の一門で、惣領上野介を中心に一致して行動していたのである。上総介、すなわち、久代宮氏が上野介家の一門であったことの証拠である。

備陽史探訪の会
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