びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(17)
                                 (福山市御幸町) 〈243〉

北から見た正戸山
 三人の宮若狭守の謎を解明する場合、手掛かりになりそうな文書が伝わっている。「嵯峨源氏渡辺氏系図纂輯」に収録された左の書状である。
「就今度両宮取相 其要害へ敵取懸候処 度々合戦之由 忠節之至候然処依宮生涯敵退散候由 可然候 當国和与之上ハ其筋目国之儀可相勤候 謹言
六月五日    俊豊 判
渡辺源三殿」
「嵯峨源氏渡辺氏系図纂輯」は郷土史の大先輩濱本鶴賓翁が、「沼隈郡誌」の参考資料とするために集めた、備後沼隈郡山田の城主渡辺氏の後裔に伝えられた各種の渡辺系図を集めたもので、有名な「渡辺先祖覚書」もこの筆写本に収録されたことから世に出た。
 この年欠山名俊豊書状は、渡辺系図の内、福山市府中町の有田浄胎房が「備中の親類より持ち帰」ったものと、「深安郡野々浜渡辺氏所蔵の系図を昭和九年十一月十六日世良戸城氏より借り受け」た系図に収録されたもので、活字化された渡辺氏伝来の文書集には収められていないが、本来同氏に伝わっていた文書と見ていい。
 内容は、両宮、すなわち、宮下野守家と宮上野介家が「取り相(合戦)」を始め、渡辺源三(兼)が守備する要害へ攻め懸かったこと、兼が良く戦い俊豊に忠節を尽くしたこと、合戦は「宮生涯」によって、敵が退散したこと、この合戦の終了によって「当国和与(和談)」が成った上は、筋目に従い役目を怠り無く務めることを、源三兼に申し送ったものである。
 この文書で注目されるのは両宮が合戦をはじめ、宮氏が「生涯(死去)」したとあることだ。もし、この死去した「宮」が下野守家か上野介家かどちらか一方であるならば、混乱した三人の若狭守の謎を解く鍵となる。
渡辺源三兼木像
 というのは、この文書の発給年代は、明応番帳の作成された明応二年(一四九二)から明応七年(一四九八)の間と確定出来、もし、死去した宮が上野介家の若狭守とすれば、長享番帳の宮若狭守と「吉見文書」年欠八月十七日付下津屋信秀外29名連署状に署名した宮若狭守貞兼は別人ということになり、貞兼の上野介家に於ける位置づけが変わって来るのである。
 明応二年、備後、但馬両国国人衆の俊豊離反によって始まった「明応の争乱」は、明応七年の俊豊の死去まで五年間戦われたが、途中一度和議が結ばれ平穏な時期があった。父政豊は但馬を、俊豊は備後を支配という妥協(和与)が成ったのである。この間の両宮の動向は、下野守家の惣領政盛が俊豊派であったことが知られ、この文書で「宮生涯によって敵退散」とあることから、死去した宮氏は上野介家の人物であったことが判明する。生涯(死去)した宮氏とは、宮教信の跡を継いで上野介家の惣領となっていた宮若狭守政信ではあるまいか。
 もし、この推論が正しければ、上野介家は当主を失い、幼い実信に託されることとなったはずだ。こうした場合、下野守家でも応仁文明の大乱中、盛忠が幼少の政盛に代わり同家を代表したように、上野介家でも長老の庶子が実信の代官として同家を代表したであろう。その代官こそ宮若狭守貞兼であったのではあるまいか、後考を待ちたい。

備陽史探訪の会
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