びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(16)
                                 (福山市御幸町) 〈242〉

正戸山城址、登山口
 戦国初頭の宮上野介家の内情を知る手がかりは残っている。一つは、明応二年(一四九三)のものと推定される「東山時代大名外様付」(明応番帳)である。この記録は同年に行われた将軍義材の河内出陣時の奉公衆の名簿と言われ、過去の番帳と比べて人数が格段に多いことに特徴がある。この記録に登場する宮氏一族は次の通りである。

一番 宮常陸介
四番 宮上野入道、同若狭守、同又次郎、同近江守、同弥太郎
五番 宮下野守、同五郎、同伊賀入道、同五郎左衛門尉、同中務丞

この内、宮上野介家の人々と考えられるのは四番衆に所属した宮上野入道以下五名である。これらの人々の関係を仮名や官途・受領名で推定すると、上野入道が上野介家家督、又次郎が嫡男、或いはその子息。近江守は庶家と考えられる彦次郎家の家督、弥太郎は其の嫡子ということになる。問題は若狭守であるが、この人物を高山城開城で活躍した政信とすると、この明応番帳には家督の上野入道(教信)、嫡子の若狭守政信、そして、その子の又次郎と、三代にわたる上野介家の人々が顔を揃えていることになる。
 この推論が妥当だとすると、若狭守は上野介家の家督たる上野介が健在な場合、その嫡子が襲った受領名と言うことになる。
 だが、この推論を覆したのが、明応末年(一五〇〇頃)と推定される年欠八月十七日付下津屋信秀外二十九名連署状である。
 この連署状は奉公方四番衆の粟飯原三郎左衛門の困窮を訴え、前将軍義材にその救済を嘆願した上申書で、署判した二十九名は何れも「四番衆」に所属した奉公衆である。この二十九人の中で、上野介家の人々と推定される人物は、次の五名である。

宮又三郎真信
宮小次郎實信
宮若狭守貞兼
宮弥太郎貞盛
宮彦次郎親孝

 この五名の内、他の史料で活躍が知られるのは小次郎實信である。この人物は実名に「信」を用いていることから上野介家の惣領を継いだ人物と判断され、永正六年(一五〇九)七月まで「小次郎」、翌永正七年(一五一〇)六月から「上野介」として記録(犬追物記など)に登場し、この頃、上野介家の家督を将軍から安堵されたと推定される。以後も各種の記録に散見し、本人の判物、書状も五通ほど現存する。また、弥太郎貞盛は明応番帳の宮弥太郎と同一人物、彦次郎親孝は彦次郎家の嫡男と見ていい。
 問題は、上野介家の家督たる上野介、或いは上野入道の名が見えず、若狭守も「貞兼」とあることである。
 貞兼を長享番帳に見える若狭守宗兼と同一人物と見る説があることは先に紹介した。では、貞兼を上野介家の家督として判断していいのか、次にこの問題を検討してみたい。

備陽史探訪の会
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