びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(15)
                                 (福山市御幸町) 〈241〉

小早川氏居城 高山城址
 三人の「宮若狭守」の内、二番目に登場する「宗兼」が宮上野介家の惣領であったことは、次の史料から確認出来る。

 十二日(延徳元年八月)来る十三日三手の犬大儀なり。二百匹過ぐ。一献有云々了。また百三十六騎有り。此の内、宮若狭守、同下野守庶子惣領の論之有り。未だ決せず。蓋し此の書き立て典厩(細川政国)之を見書き、下野守を以って上と為す。之によって若狭守云う、我惣領の段余儀なし、惣領役を勤むこと、今にその隠れなしと云々。下野守云う、我家元来我惣領なり。蓋し下野守を以って根本惣領となす。中間上意を違い、若狭守を以って惣領となし、件々の公義を勤む、その支証など歴々これ有りと云々。然らば両人の支証点検、以って上下の儀を相定べきの儀これあり。京兆(細川政元)これを聴きて曰く、しからず、もし興あらば、犬の人数に加えるべきのみ。此の会は他家訴論の事の儀は無益なり
       (蔭凉軒日録)
 延徳元年(一四八九)八月、管領細川政元主催の「犬追物」で、射手を務める宮若狭守と同下野守の席次が問題となった。実務を取り仕切った細川政国が下野守を上にした次第を公表したところ、宮若狭守が宮家の惣領は私であって、私が下野守より上に立つべきだと異議を申し立てた。
 そこで、政国が両人を呼んで言い分を聞いたところ、若狭守は我家が宮家の惣領であることは「惣領役」を務めた証拠があり間違いないと言った。それに対して、下野守は我家こそ宮家の惣領家であってしっかりした証拠もある。若狭守の家(上野介家)が惣領役を勤めたのは将軍の上意が間違っていたためで、我家が宮家の惣領家であることは間違いない、と互いに譲らなかった。
 困った政国は管領政元に伺いを立てたところ、政元は此の会は訴訟を行なうべき場所ではない、もしこれ以上我を張るなら犬の数に加えてしまえと立腹、この訴論は沙汰止みとなった…。
 宮氏一族の内情を暴露した大変興味深い逸話だが、ここで問題としたいのは、若狭守が上野介家を代表して、下野守家の惣領政盛と庶子惣領の論争を行なっていることである。延徳元年の時点で、若狭守が上野介家の家督、または嫡子であったことは間違いない。
 問題は若狭守の実名である。延徳元年を去る二年前の記録、「長享元年九月一二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」に若狭守の実名が「宗兼」とあることだ。この宗兼を更に十年後の史料に出てくる「若狭守貞兼」と同一人物とする考えがあることは先に述べた。だが、上野介家を代表した人物が同家の通字である「信」を実名に用いていないの不自然である。宮宗兼という人物は果たして実在したのかどうか。というのは前掲の長享元年の着到には、若狭守の前に「陶山備中守宗兼」の名があるのである。若狭守宗兼の宗兼は陶山備中守宗兼の宗兼が重複したものではなかったか。こうしたことは、古記録が書き写されていく間にはよくあることである。

備陽史探訪の会
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