びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(14)
                                 (福山市御幸町) 〈240〉

長享番長
「備後両宮」とは、惣領家の宮下野守家と、惣領家に拮抗した勢力を持った宮上野介家のことを世人が呼んだものである。「両○○」とは、室町期に良く出てくる言葉で、備後安芸では、広沢一族の和智、江田氏を「両広沢」、小早川氏の沼田惣領家と竹原家を「両小早川」と呼んだ例がある。
 対抗関係にあった宮下野守家と同上野介家が「両宮」として一致した行動を採ったのには理由があった。
 応仁文明の大乱で、宮一族は西軍に味方し、東軍の山名是豊の攻撃を受け、一時は滅亡の瀬戸際に立たされた。すなわち、新市町の柏に立て籠もって是豊方の攻撃を請けた宮一族は、よく戦ったが是豊方に備中の庄元資、備前の松田彦次郎など有力な援軍が駆けつけると持ちこたえることができず、惣領の下野守教元をはじめ主だった者が自害して東軍に降った(渡辺先祖覚書など)。
 ところが、文明七年(一四七五)には入ると、東西両軍の勢力バランスに変化が起った。長躯、備北に侵攻し、備後西軍の本拠甲山城を取り囲んだ山名是豊軍は、背後から西軍に味方した安芸毛利氏の攻撃を受け、もろくも敗北、命からがら石見に逃走したのである。
 こうして、滅亡寸前まで追い詰められていた宮一族は息を吹き返した。しかし、惣領家は当主教元や主だった一族が自害したため、庶家ではあるが年長の五三郎盛忠が幼主政盛の名代として下野守家を代表した。上野介家でも当主上野介教信に代わって嫡子と考えられる若狭守政信が家を代表したのは、代官であった盛忠とのバランスを考えてのことか、或いは教信もまた惣領の教元と共に自害していた為であろう。
宮盛忠契約状(山内首藤文書)
 この頃から、岩成庄を本拠とした宮上野介家の系譜に混乱が見られ、今までのように確実な記録から家督の交代を確認出来なくなる。
 問題は、以後半世紀近くの史料に登場する三人の「宮若狭守」の関係である。一人は、勿論応仁文明の大乱で「備後両宮」として活躍した若狭守政信である。
 ところが、大乱が終息して十年も経たない頃、政信の名は消え、若狭守宗兼という人物が現れ、上野介家を代表して下野守家の政盛と庶子惣領の争論を行なった(1)。そして、更に十年経った明応九(一五〇〇)年頃、宗兼とは別の若狭守貞兼という人物が史料に登場するのである(2)。
 この三人の若狭守の中で「宗兼」と「貞兼」を実名の下の字が同一のため、同一人物と見なす意見もある(3)。だが、宗兼が上野介家を代表して幕府に出仕しているのに対し、若狭守貞兼は上野介家の惣領と考えられる小次郎実信と共に連署状に署名しており、実名に「信」を用いていないことから上野介家では傍流の立場にあったと推定される。
(1)「長享元年常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」「蔭凉軒日録」延徳元年八月一二日条など
(2)「尊敬閣文庫」所収吉見文書「下津屋信秀他二九名連署状」(羽田聡「足利義材の西国廻りと吉見氏」)
(3)木下和司氏など「中世を読む会」発表要旨 

備陽史探訪の会
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