びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(13)
                                 (福山市御幸町) 〈239〉

正戸山城跡を眺める
 室町時代の宮氏の族的構成を示す良い資料に、「永享以来御番帳」「文安年中御番帳」等の各種番帳がある。
 室町幕府は、国々の支配を守護に委任し、守護を支配することで全国政権としての実を挙げようとしたが、それだけでは守護が独走し、将軍の命令を聞かなくなる恐れがあった。その為、将軍は守護家の庶流や国々の有力国人を将軍直属の家臣団として組織し、守護の動きを牽制使用とした。これが奉公衆で、三代将軍義満の時代に設けられ、六代将軍義教の時代に組織として整備され、約四百人が一番から五番までの五組に分かれて将軍に奉仕した。その名簿が「御番帳」と呼ばれるもので、現在、文安年間(一四四四~四九)から明応二年(一四九三)のものまで各種のものが伝わっている。
 これらの番帳によると、備後宮氏の一族は、一番衆に一家、四番衆に三家、五番衆に二家が所属し、それぞれが独立して将軍に仕えていた。
 これら宮氏の中で、正戸山を含む岩成庄を本拠としていた宮上野介家は四番に所属していた。文安年間(一四四四~四九)の「文安年中御番帳」の四番在国衆宮上野介、「永享以来御番帳」(一四四九~五一)の四番宮上野介は宮教信に比定され、同じく四番衆に所属した宮彦次郎、同三河入道、同近江守、同弥太郎は「所属番が同じ同姓者は近い一族」とされるから、皆上野介家の一門と推定される。一方、上野介家に対抗した下野守家の所属番は「五番」で下野守家と並んで五郎左衛門尉家が幕府に出仕していた。一番衆に所属した宮孫左衛門尉家の出自は不明だが、その後裔と考えられる宮平次郎が御調方面で活躍していることから、御調郡に本拠を置いていた宮氏であろう。
室町幕府、 六代将軍足利義教
 奉公衆の体制は意外にも強固で、応仁の大乱後も存続して将軍を支え、その体制の崩壊が将軍権力の瓦解を意味した。
 上野介家で教信の跡目を継承したのは、政信と推定される。政信の活躍が見られるのは応仁文明の大乱中のことである。備後・安芸は大乱中、国人衆が東西両軍に分かれて戦った。中でも東軍に味方した沼田小早川氏の高山城は東西両軍の争奪の的となった。
 高山城の合戦は文明七年(一四七五)に至って大詰めを迎えた。備後守護で東軍に味方した山名是豊の救援も及ばず、同年四月、高山城は開城し小早川氏は西軍に降った。この安芸備後の戦局を左右した高山城開城の斡旋を行なったのが、「備後両宮」と呼ばれた宮若狭守政信と同五三郎盛忠であった(小早川家証文二〇二号など)。
 政信が上野介を官途とせず、「若狭守」を名乗ったのは、その父教信が存命で、上野介家の家督の地位にあったためと考えられる。明応二年(一四九三)の奉公衆の全貌を示すと言われる「東山時代大名外様付」には宮上野入道と宮若狭守が並んで四番衆に登場しており、上野入道が教信、若狭守が政信と考えられ、政信が上野介家の家督を相続して上野介を名乗るのはその後のことである。

備陽史探訪の会
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