びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(12)
                                 (福山市御幸町) 〈238〉

「康正二年造内裏段銭并国役引付」 、 
真中あたりに「 弐拾貫文  宮上野介殿 」
 満信の記録が永享二年(一四三〇)の「御前落居記録」で絶えた後、その後継者として登場するのは教信である。
 教信の「教」字は六代将軍足利義教の偏諱を受けたものと考えられ、上野介家の先例を追って将軍奉公衆として活躍した。その初見は永享九年(一四三七)のことであった。
 この年十月、六代将軍足利義教は父義満の先例を追って後花園天皇を室町亭に招き、盛大な宴を催した、「永享の行幸」である。将軍義教は先ず参内して天皇に謁し、行幸を乞うた。その華麗な行列に又次郎教信は、同族の下野守元盛、同又五郎盛広と共に「布衣侍」として従った。「布衣侍」とは六位の位を持った侍のことで、奉公衆としては上位に位置し、将軍の外出などに騎馬で従った。このような華麗な儀式に参列できるとは、教信の得意、以って知るべしであろう。
 次いで、教信が記録に登場するのは、翌永享十年(一四三八)八月の、将軍の石清水八幡宮参詣である。先に述べたように、足利家は源氏の嫡流として八幡宮を崇敬し、八月十五日の「放生会」には「上卿」すなわち儀式の主催者として奉仕するのが例であった。教信はこの将軍参詣の「衛府侍」として従った。衛府侍は衛門尉に任ぜられた奉公衆が勤めるのが例で、教信もこのときの記録(石清水放生会記)には、次郎左衛門尉とある。父満信の例を追って順調に昇進している様子が窺える。
 満信から教信への家督の交代は、この永享十年から嘉吉二年(一四四二)二月の間に行われたようである。すなわち、嘉吉二年二月、教信は「宮上野介教信」として幕府的始の射手を務め(大的日記)、この間正式に父満信の跡目を継いで「上野介」に任官したことが判明する。その理由は満信の死去によるとするのが妥当であろう。以後、教信は宮上野介として幕府の記録に散見し、康正二年(一四五六)に及んでいる。
 この間の記録として重要なのは康正二年の「造内裏段銭並国役引付」(以下引付)である。これは、康正度の内裏造営に際して、幕府の御蔵正実坊に、段銭を直接の納入した(これを京済という)者の記録で、教信は同年六月、「備後国所々七ケ所分」段銭二十貫文を幕府御蔵に納入した。
 二十貫文は大した額である。段銭を京済したものは公家や寺社、奉公衆等であるが、そのほとんどは数百文から数貫文で十貫文を越える者は相国寺や三条大臣家など一割を超えるかどうかの割合で、備後・安芸の奉公衆の中では、宮教信と宮教元(下野守)、杉原彦四郎、小早川煕平(備後守)の四人しかいない。更に、注目されるのは、他の宮一族、宮下野守(教元)、下総、式部丞等の段銭が「備後国の内」などと曖昧な表現になっているのに対し、上野介家の上野介は「所々七ケ所」、彦次郎は「三ヶ所分段銭」とあるように具体的な所領の数が表記されていることである。このことは、上野介家は下野守家と違い、より在地性が強かったことを意味していよう。

備陽史探訪の会
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