びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(11)
                                 (福山市御幸町) 〈237〉

歴代将軍が崇敬した石清水八幡宮
 正戸山一帯に力を持っていたと考えられる宮上野介家の動向は、室町時代前期の満信の代からはっきりしてくる。
 満信の京都における初見は応永十九年(一四一二)八月十五日の、将軍義満の石清水八幡宮社参であった。石清水八幡宮は源氏の氏神で、歴代将軍は八月同宮の「放生会」に参列することが例となっていた。満信はこの社参に、同族の式部丞盛広と共に「衛府侍」として従った。(「群書類従」所収「八幡社参記」)。その後、しばらくは京都での活躍は知られていない。代わって登場するのは満信の舎弟氏兼であった。氏兼は兄満信が次郎左衛門尉であったのに対し、次郎右衛門尉を称し、以後同二八年(一四二一)まで、連年幕府の正月的初めの射手を務めている。満信が次に登場するのは、同年十一月のことであった。「花営三代記」によると、昨年の同月、将軍の病気平癒のため幕臣三十五人が将軍の代官として伊勢に参宮したが、将軍の病が平癒したことにより、御願成就の使者が派遣されることとなった。その使者三十五人の一人に選ばれたのが満信であった。この時、満信の官途は「上野介」となっており、この間上野家の家督を継承したことが確認される。
 上野介家の家督を継承した者が「上野介」の受領名を名乗ることが例となっていたことからすると、先に述べたように、二代氏信と満信の間にはもう一世代存在した可能性の方が高い。もし、満信が氏信の嫡子として家督を継承したならば、応永六年(一三九九)一二月、氏信が死去した直後、満信は上野介に任官したはずだが、同人は応永一九年(一四一二)に至っても「次郎左衛門尉」である。氏信と満信の間には記録に現れない世代が存在したに違いない。
六代将軍 足利義教
 以後、満信の京都での活躍は知られない。代わって登場するのは舎弟の氏兼である。同人は応永三〇年(一四二三)から再び幕府的始の射手を務め、同三三年(一四二六)に及んでいる。この間備中守に任官したことも知られ、称光天皇の大嘗祭には右衛門尉として奉仕するなど、将軍の覚えが良かったことが推定される。
 最後に満信の在世が確認されるのは永享二年(一四三〇)のことである。この年十一月、幕府は宮上野入道信雄と岡崎門跡の間の「安那東条」をめぐる争論に対して、門跡側勝訴の判決を下した(御前落居記録)。安那東条は、現在の神辺町上下御領にあたり、信雄、すなわち満信が応安四年(一三七〇)当家が拝領したもので、岡崎門跡が「謂われなく」押領したものと主張したのに対し、門跡側は文和(一三五二~一三五六)以来代々の将軍の「御判」を賜っていると反論。結局、幕府は門跡側に理を認め、信雄の「競望」を止めることを命じた。舎弟氏兼を幕府に出仕させた満信は、国許にあって勢力の拡大に余念がなかったと見るべきだろう。

備陽史探訪の会
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