びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(10)
                                 (福山市御幸町) 〈236〉

今大山城跡から正戸山を望む
 今大山城に本拠を置いた宮上野介家にとって、正戸山は枢要な位置を占めていた。今大山城は地形的には山城として理想的な形状を持っていたが、神辺平野の中心からは東北に偏り、領域支配のためには、各所に支城を配す必要があった。正戸山はその西南3キロで、神辺平野の全体を見渡すことが出来、その支城としては絶好の位置にあった。
 中世山城は、南北朝時代に盛んに築城され、軍事的に利用された。しかし、この時代の山城は純粋に合戦の「道具」であったため、南北朝時代が終り、「室町の平和」が訪れると、自然に使われなくなった。宮満信・同氏兼兄弟が史上に登場する室町時代前期には、今大山城も築かれず、正戸山も放置されたままであったろう。この時期の宮氏の居館は、満信のそれは、石成庄道上条の護国寺周辺。氏兼の居館は同庄下村の法成寺あたりにあったはずである。
 山城が「要害」として再登場するのは、室町時代中期になって、世情が次第に乱世の様相を深めるようになってからだ。具体的には嘉吉元年(一四四一)六月の「嘉吉の乱」を以って嚆矢とする。嘉吉の乱は、将軍足利義教の専制に対して、家存続の瀬戸際に建たされた播磨守護赤松満祐が、窮鼠猫を咬むの例え通り、将軍を自邸に招き暗殺したもの。赤松氏は幕府軍の討伐によって滅亡したものの、白昼京都で将軍が殺されたことは、世の中に大きな衝撃を与え、幕府が衰退する大きなきっかけとなった。各地の大名国人も動乱に備えて、それまで放置していた山城を再整備して「要害」として一朝有事に備えようとした。
三代将軍 足利義満
 わが備後地方でも神辺黄葉山に城が構えられたのはこの時期と伝えられ(備後古城記など)、国内の国人衆が山城を再整備したのもおおよそこの頃と考えられる。宮上野介家が自家の「要害」として今大山城を取立てらのもこの時代と見ていいだろう。
 正戸山が山城として再整備されたのもこの時期としていいかどうかは、検討の余地がある。一般的に領内の各所に山城を築いて支配を固める「支城制」は、戦国期になって各地の大名国人が取り入れたと考えられている。正戸山が今大山城の支城として整備されたのはもう少し時期が下るはずだ。
 今大山城の築城が室町中期にさかのぼるとしても、宮上野介家が備後の国人衆として在地で勢力を振るうようになるのはもう少し待たねばならない。同家は室町時代の中期までは将軍の「奉公衆」として、「在京」することが多く、その勢力も国元と京都に二分されていた。というよりも、幕府権力がしっかりしていた時代、宮氏は奉公衆として将軍に奉仕することで自己の勢力を維持しようとした。これは守護大名が幕府権力を背景に任国を支配したのと同じことで、この点が守護の「被官」となって勢力を拡大しつつあった備北の山内首藤氏や和知江田の広沢氏などと、宮氏の異なることであった。

備陽史探訪の会
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