びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(9)
                                 (福山市御幸町) 〈235〉

室町幕府、三代将軍足利義満
 応永十五年(一四〇八)頃、宮次郎右衛門尉氏兼が石成庄下村、同門田の地を領していたということは、その兄満信も氏兼の所領に隣接する地域を父から譲られ領していたということだ。
 氏兼の所領石成庄下村、同門田が現在のどの地域に当たるのか、確証はないが、石成庄が東西に「上村」「下村」に分かれていたとすると、郷土史家坂本敏夫氏が指摘するように、加茂川の旧河道から西が氏兼の支配した下村・同門田とするのが良いだろう。門田を石成庄内に位置した法成寺内の門田屋敷をその遺名とするならば、現在の駅家町万能倉から法成寺にかけてを下村の範囲とすることが出来る。
 とすると、満信の所領は当然それに隣接する地域、具体的には石成庄上村に存在したことが予想される。
 このことは、現地に残る遺跡からも判断できる。上野介家の始祖宮入道道仙、同氏信父子が将軍義詮の菩提を弔うため不味興志を開山に招聘して臨済宗の護国寺を創建したことは先に述べたが、この護国寺の法灯を伝えた真言宗護国寺が正戸山の東北2キロ余の神辺町道上に存在する。道上は石成庄上村の「道上条」として史料に登場する地域で、護国寺も当然上村に含まれていたはずである。しかも、護国寺の北方2キロのところには、宮上野介家の本拠「今大山城」があった。石成庄上村は宮上野介家の本領として満信が伝領した、と考えて良いだろう。
 宮満信、氏兼兄弟が上野介家の二代目宮氏信(次郎左衛門尉、上野介)の子息であったかどうかは不明である。氏信の没年は応永六年(一三九九)、満信・氏兼兄弟の史料上の初見は応永十五年(一四〇八)である(応永記・山内首藤家文書)。
 氏信の史料上の初見は貞治元年(一三六二)。明徳三年(一三九二)の『相国寺供養記』に下野守家の修理亮満盛と並んで六郎氏清の名があることから、或いは氏信と満信・氏兼兄弟の間には氏清を含むもう一世代入れたほうが良いのかもしれない。
 満信・氏兼共に、その一生を比較的良質の史料で追うことが出来る。満信は応永十九年(一四一二)八月十五日、将軍義満の石清水八幡宮参詣に「衛府侍」として従ったのを初見として、永享三年(一四三一)まで各種の記録に登場する。この間、次郎左衛門尉から上野介と、上野介家の先例に従って順調に任官し、晩年には入道して「信雄」と号した(御前落居記録)。
 弟の氏兼も兄満信の後を追うように応永二十二年(一四一五)から幕府の記録に登場し、以後、永享二年(一四三〇)まで幕府に奉公衆として出仕した(大的日記など)。氏兼は次郎右衛門尉から備中守に任官しており、官途名からも上野介家から独立した一家を立てたことが判明する。氏兼について特筆されることは、幕府恒例の行事である、正月の「弓場始」射手を度々務めていることである。これは当時の武士にとっては大変名誉なことで、氏兼が弓馬の道にも堪能であったことを示している(大的日記など)。

備陽史探訪の会
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