びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(8)
                                 (福山市御幸町) 〈234〉

室町将軍家御教書 (山内首藤家文書) (山口県文書館蔵)
 惣領制は相続制度と密接なかかわりを持っていた。
 鎌倉時代の惣領制は、庶子家が制限付きの所領を与えられることで成り立っていた。嫡子以外の子どもも別け分を譲られて別に「家」を立てることが出来たが、その所領の最終処分件は惣領が握っていた。庶子が親兄弟に「不孝」な行為や、惣領に違背するなどの行為を行なった場合、惣領は幕府の許可を得ることなくその所領を取り返すことが可能であった。
 南北朝の内乱は、この惣領制を解体させた。上の権威が分裂したことにより、庶子は容易に所領の安堵や恩給を得ることだ出来、惣領は庶子を統制することが出来なくなった。宮氏の場合も、庶子宮入道道仙、同次郎左衛門尉氏信父子は、惣領家と対立する権威、具体的には足利尊氏、義詮父子に味方することによって、岩成以下多くの所領を獲得し、惣領家とは独立した「宮上野介家」を立てることが出来た。
 しかし、それはまた、新たな庶子家を創設し、上野介家自体が惣領として、それら庶子の統制に苦しむもととなった。左の史料はその一端を示したものである。

室町将軍家御教書
  (山内首藤家文書八三号)
宮次郎右衛門尉氏兼申す、備後国石成庄下村、同門田、山野郷内江谷比多野、並びに服部郷、同永末事、早く宮下野入道相い共、舎兄満信の妨げを止め、氏兼代に下地を沙汰居(す)え致すべきの由、仰せ下されるところなり、仍て執達件の如し
応永十五年十月十三日 
        沙弥(花押)
山内四郎次郎殿
 内容は、宮氏兼が自分の所領、石成庄下村・同門田以下に関し、兄満信が「妨げ」を為すとして幕府に訴え出たこと。その結果、幕府は氏兼に「理」があることを認め、「両使」宮下野入道と山内四郎次郎に満信の妨げを排除して所領を氏兼の代官に渡すよう命じたもの。
 満信・氏兼兄弟は、その実名から上野介家二代氏信(下野次郎、次郎左衛門尉、上野介、後入道して勝源因公)の子息と考えられる。すなわち、上野介家では三代目にして、すでに一族間に内紛を抱えていた。
 この文書で興味深いのは、嫡子と考えられる満信が「舎兄」と表現されていることだ。舎兄は舎弟に対応する言葉。とすると満信と氏兼の間には、明確な惣領、庶子の関係が存在しないことになる。また、幕府の命令を実際に執行する「両使」に、宮氏の惣領下野入道(満盛、入道禅盛)が任命されていることも注目される。両使には本来、被告原告と利害関係を持たない者が任命される。ということは、宮上野介家は幕府によって下野守家と対等な、「別の家」として認識されていたことを示していよう。

備陽史探訪の会
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