びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(7)
                                 (福山市御幸町) 〈233〉

護国寺の本尊  釈迦三尊像
 宮氏の庶子であった宮入道道仙、その子次郎氏信父子の、武将としての面目を天下に示したのは、貞治元年(一三六二)から、翌年九月にかけて行われた足利直冬との合戦であった。直冬は3度目の入京を果たした文和四年(一三五五)以降、権威を失墜し、石見(島根県西部)に雌伏していたが、山陰の山名氏が南朝に応じて幕府に反抗すると共に再起を図り、同年春、備後府中に出陣して味方を募った。この時、宮入道父子は直冬の勧誘を拒絶し、あくまで京都の幕府に忠節を尽くす姿勢を示した。怒った直冬は宮入道が籠った宮城(新市亀寿山城と思われる)の目と鼻の先の宮内に陣を移し、宮入道の城に攻め懸かった(太平記巻三十八)。
 直冬と宮入道の対決は一年以上に及んだが、最後に宮氏の逆襲によって直冬は敗北して行方知れずとなり、再び歴史の表舞台に立つことは無かった。宮入道の勝利によって中国地方の幕府方は勢いづき、山陰の山名氏、周防の大内氏も相次いで幕府に帰順し、南北朝の内乱も急速に終息に向かった。
 幕府も宮入道の功績を認めたのであろう、翌貞治三年(一三六三)、道仙を備中国守護職に補任してその功に報いた。道仙の備中守護は短期間で終り、宮氏が再び守護家の格式を持つことは無かったが、この活躍で道仙の家系は惣領家を凌ぐ勢いを持ち、惣領の下野守家と共に宮上野介家として、以後大きな力を持つことになった。
 道仙・氏信父子が正戸山のある岩成庄一帯に勢力を持ったことは、次の史料からも判明する。
「禅僧季照は備後宮氏の出身であった。季照が言うに、族祖(道仙)は尊氏・義詮に忠節を尽くし、将軍も目を懸け、周防・備中両国の内一国を与えようという有難い御内書を拝領し、今も家にあるということである。義詮公が亡くなられた時、備後でその知らせを聞いた族祖は直ちに上洛し、墓前で泣き崩れたと言うことである。この時、族祖は当時真如寺に居られた不味和尚に義詮公の追善供養はどのようにすればいいか尋ねた。和尚は、それは一寺を建立するのが最善であると答えた。よって族祖が創建したのが備後の護国寺である(臥雲軒日録文安五年正月一三日の条)」
 護国寺は宗旨は真言宗となっているが、現在も神辺町道上にその法灯を伝えている。かつて臨済宗であったことは、本尊が釈迦三尊であることからも明らかで、戦国期の宮氏の再興を伝え、宮入道道仙・氏信父子が建立したと言う護国寺と見て間違いない。
 やや東北に寄り過ぎた感もあるが、寺の位置する道上は「岩成庄内道上条」の遺名と推定され(注)、この護国寺の存在も、宮上野介家が岩成庄内に大きな所領を持っていた傍証の一つとなる。
(注)坂本敏夫『「石成庄上村武守名即分田畠坪付」文書考察』備陽史探訪一七五号 2013

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