びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(6)
                                 (福山市御幸町) 〈232〉

宮氏信 (次郎左衛門尉)の書状
 宮氏の勢力がこの地に及んできたことを示すのは次の文書である(関係分のみ摘記)。

 長井能里申状案
(前欠)備後国本領長和庄東方、同国岩成庄下村地頭職などの事で申上げます。
右能里、当国の知行分は四ヶ所です。田総小童長和三ヶ所は鎌倉以来の本領です。岩成庄は当御世最初の勲功の賞として拝領したものです。将軍様のご命令で平穏に支配しようとしたところ、宮次郎左衛門尉の父である故宮入道道仙がこの地は我々が将軍家より拝領したものであると称し、私の使者を入れようとしません。道仙の申分は全くの偽りで、証拠の文書も今は反故となったものです。何とか御返し頂きたく、嘆願しましたが、守護今川様の御命令で鎮西に出陣してその暇がありませんでした。九年間の鎮西に於ける忠節は守護殿より御注進があったと思います。このように忠節を励んでまいりましたので、どうか安堵の御下知を頂いて、長和岩成をお渡しいただき、今後も無二の忠節を励みたいと存じ、あらましを言上致します。
康暦三年(一三八一)二月 日
(「田総家文書」原和様漢文体)

すなわち、備後の国人である長井氏は、本領の田総・小童・長和庄の他、岩成庄下村地頭職を足利尊氏から「当御世最初の勲功地」として拝領したが、実際に現地に入部する暇もないまま宮氏に押領されてしまった、九年間の鎮西(九州)での忠節の恩賞に代えて岩成の地を返してもらいたい、と言うのが文書の大まかな内容である。こうした文書を「申状」とも「目安状」とも言う(江戸時代「享保の改革」の「目安箱」の「目安」はここから来ている)。
山頂直下の 「下馬所」 (昭和天皇が下馬された場所)
 長井氏の所領、長和(現福山市瀬戸町)岩成を「自由押領」した宮入道道仙、その子次郎左衛門尉とは一体如何なる人物か。
 宮入道道仙、次郎左衛門尉父子とは、『太平記』にも度々登場する宮下野守兼信、その子下野次郎氏信のことである。兼信父子は『福山市史』上巻では、新市亀寿山城主で宮氏の惣領家であったとしているが、おそらく宮氏の庶家で、惣領の盛重が南朝方或いは足利直冬方として活動したのに対し、一貫して足利尊氏・義詮父子に忠節を尽くし、庶家ながら惣領家を凌ぐ勢いを持った人物である。頼宥の勝戸城(正戸山)は度々宮盛重の軍勢に攻撃されているが、或いは頼宥は兼信の勢力を背景にこの城に拠ったのかも知れない。
 南北朝の内乱を複雑化し、長引かせたのはこの惣領と庶子(庶家)の対立にあった。前代鎌倉時代までは庶家は惣領家の指揮下にあって幕府の諸役を務めたが、内乱期に入ると、惣領の支配下から脱し独立性を高めつつあった。南北朝の抗争はこの庶家の独立に絶好の機会を提供した。宮氏でも南朝方、或いは足利直義・直冬に味方した惣領家に対し、兼信父子は、北朝方(足利尊氏方)に味方することによって、惣領家の桎梏を脱し、独立を果たそうとしたのである。

備陽史探訪の会
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