びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(5)
                                 (福山市御幸町) 〈231〉

宮氏信 (次郎左衛門尉)の書状
 備後守護岩松頼宥が正戸山(勝戸城)に本拠を置いたのは、備後の政治経済の中心だった府中に入れなかった、ということもあるだろう。
 府中にあった備後国府は、南北朝時代に入っても力を持ち、備後国目代は後醍醐天皇の綸旨によって、杵築太郎などの悪党人の乱暴を排除し、因島を浄土寺に還付している。また、国庁には有力な在地領主であった在庁官人もいて実務を行い、国府領であった「国衙領」も存在した(浄土寺文書一二・三四号等)。
 更に、府中の国府には有力な敵方であった宮盛重、杉原光房などの勢力が強く及んでいたことも影響していよう。
 宮盛重は備後の有力国人宮氏の惣領家であって、庶家の宮兼信が尊氏に味方したのに対し、惣領の盛重は尊氏に敵対した上杉氏や尊氏の弟直義に属し、頼宥の軍勢と干戈を交えた。杉原光房も杉原氏の惣領家であって、庶家の信平・為平兄弟が尊氏に忠勤を励んだのに対し、盛重と同じく直義に味方し、直義没後は養父直義の意思を継いで、尊氏打倒に執念を燃やした足利直冬に属し、その側近として活躍した。
 宮盛重、杉原光房は共に国府にも勢力を持ち、頼宥が国府に入るには彼等の勢力を排除する必要があった。
神辺平野の景観
 更に、正戸山の眼下に広がる神辺平野の中心を占めた岩成庄が元弘没収地として尊氏方の手にあったことにもよるだろう。
 岩成庄が北条氏与党の旧領として尊氏の処分に任されていたことは、一・二の証拠がある。同庄は大きく「上村」と「下村」に分かれ、上村が尊氏が元弘以来の戦没者の菩提を弔うために創建した天竜寺領であったのに対し、下村は尊氏によって「当御世最初之勲功地」として長井重継に与えられた(天竜寺文書・田総文書)。「当御世」とは先代北条氏に対して足利氏の天下を指し、下村・上村共に足利氏によって恩賞地や寄進地として処分されたことを示している。
 岩成庄上村・下村の範囲については意見が分かれるところだが、坂本敏夫氏が主張するように、荘園を南北に分けたものではなく、東西に分け、京都に近いほうを「上村」その西方を「下村」と称したとした方が良いだろう。
 正戸山は、この岩成庄上村、同下村の何れに属していたか明らかでないが、いずれにしても将軍足利氏の勢力が強く及んだ地であって、在地に地盤を持たない頼宥にとっては本拠とするに相応しい地であったことは間違いない。
 一帯に、正戸山城の城主と伝わる宮氏の勢力が及んでくるのは、頼宥が京都に引き上げ、付近の戦乱が一応収まった、丁度その頃のことであった。

備陽史探訪の会
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