びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(4)
                                 (福山市御幸町) 〈230〉

現在の山頂本丸の様子
 備後守護として正戸山城に拠った岩松氏は、新田氏の一門ながら血筋は足利氏と云う複雑な家系を持った武士団であった。
 下野足利庄に蟄居した源義国(八幡太郎義家の四男)には二人の男子があった。兄が義重で弟が義康。兄は上野新田庄を本拠として「新田氏」を称し、弟は父義国の跡
を継いで足利庄に居住して「足利氏」を称した。言うまでもなく、源氏の名門新田、足利の起こりである。
 足利義康の孫に義純という人物がいた。義純は父義兼の勘気に触れ、足利に住むことができなくなった。これを哀れんで手元に引き取ったのが新田氏の惣領義重であっ
た。義重は孫娘を義純に娶わせ、新田庄内岩松に住まわせた。これがそもそも岩松氏の起こりであった。
 ことが拗れたのはこの後である。新田氏の婿となった義純は、この後どうしたわけか義重の孫娘と離縁し、畠山義忠の後家と結婚して、新たに源姓畠山氏の家を起こし
た。これが後に室町幕府三管領家の一つとなった畠山氏である。
 義純と離縁した義重の孫娘にはこの時既に二人に息子があった。兄時兼が母の遺領を相続し、岩松太郎と称して家を継いだ。そして、その曾孫に備後守護となった岩松
律師頼宥が現れるのである(新田岩松系図など)。
 所領の伝領過程からから見ると、岩松氏は歴とした新田氏の一門であった。だが、初代義純が足利氏の出身であったことから、面倒なこととなった。
 鎌倉幕府の成立とともに、新田氏も足利氏と同様、源家の一門として大いに繁栄するはずであった。ところが、義重が容易に頼朝に靡かなかったことから、新田氏は幕
府の中で冷遇されることとなった。足利氏が三河、上総の守護を拝領するなど順調に勢力を拡大して行ったのに対し、新田氏はことあるごとに所領を没収され、衰退の一
途をたどっていった。これは、元弘三年(一三三三)、足利尊氏(高氏)、新田義貞が反幕の挙兵をした際、高氏が従五位下治部大輔であったのに対し、高氏より年上で
あった義貞が無位無官の「小太郎」であったことからもよく分かる。
 この情勢に、岩松氏は新田氏の庶流ながら足利氏に属す道を選んだ。寄らば大樹の影、というわけだ。
 こうして岩松氏は南北朝の動乱が始まるとと共に、足利尊氏に忠勤を励み、一門大名として遇されることとなった。
 頼宥は岩松氏の中にあっては、庶子であった。系図によると、時兼から三代目の政経には4人の男子があった。義政、四郎、頼宥、経家である。家は四男の経家が継ぎ
、「岩松兵部大輔」と称しているから、頼宥の備後守護補任は、その武将としての器量を尊氏が買ったからに他ならない。
 備後守護としての頼宥の活躍は目覚しいものであった。正戸山(勝戸城)を本拠にした頼宥は、東奔西走、反幕勢力の平定に務め、翌文和五年(一三五六)、その職を
細川頼有に譲るまで備後守護の務めを全うした。
 なお、岩松氏はこの後新田義貞の子孫が滅亡した後、新田氏の祭祀を継承して新田氏を称した。江戸幕府が正式に徳川氏の本家新田氏と認めたのは、この新田岩松氏で
あった。

備陽史探訪の会
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