びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(3)
                                 (福山市御幸町) 〈229〉

地元の人が建てた説明版
 備後守護岩松頼宥が本拠を正戸山に置いたのは、もちろんその立地にあった。神辺平野のほぼ中心に位置し、南麓を山陽道が走っている。尊氏から敵対勢力上杉氏打倒の使命を帯びて備後に派遣された頼宥としては、備後の穀倉を一望の下に収め、都との連絡にも便利なこの地は、その本拠として絶好の位置を占めていた。
 ただ問題が一つある。居城「勝戸」の名は観応二年(一三五一)十月の史料に登場するのに対し、その2ヶ月前の八月の記録に、「石成上下城」の名が登場することである。
 すなわち、頼宥に味方した備後の国人三吉覚弁は頼宥の「備後国石成上下城退治」で手柄を立て、頼宥に賞せられた(三吉鼓家文書)。頼宥が備後国の守護職に補任されたのは、その直前と推定されるから、時系列にそって考えると、頼宥は先ず石成上下城に拠った敵の上杉勢を追い落とし、その後正戸山(勝戸城)を本拠とした、という流れとなる。素直に読めば頼宥は上杉氏から石成上下城を奪い、本拠として「勝戸城」と号した考えられる。
 果たして、石成上下城は何処に存在したのか、或いは勝戸城と石成上下城は同一の城、正戸山城のことなのか…。この点は論者の見解の分かれるところである。
 石成は岩成の旧表記で、江戸時代の深津郡上岩成村・同下岩成村のことと考えれば、現在の福山市御幸町上下岩成の地内でその候補地を探さなければならない。だが、中世の石成の範囲はもっと広かったことが現在史家の定説になっている。
 地名「石成」の起源は古代の品治郡石成郷にさかのぼる。これは近世上下岩成村が深津郡に属したことを考えると奇異に感じられるが、郡界の移動はママ見られることで、これをもって古代の石成と近世の岩成を別のものと考えるには当たらない。
 それよりも、中世の石成はもっと広い範囲を指していたとする記録が存在する。「石成(岩成)庄」の存在だ。岩成庄は応安七年(一三七四)の記録に「岩成庄法成寺」として見え、現駅家町法成寺をその庄域としていた。更に近世の記録ではあるが、『備陽六郡志』に、岩成は神辺から新市にかけての広い範囲を指す地名で、福島検地の際、支配に便利なように村高数百石の村々に分割されて現在に至ったとあり、神辺平野のほぼ西半分を占めた大きな荘園であった。
 石成上下城の「上下」を地域を区切った「上下」と見る考えもあるが、地元の郷土史家坂本敏夫氏が主張するように、立体的な上下と考えた方が無難である。この考えを採ると、上下城は正戸山を「上」城、その南にあったとされる「宗岡城」(御幸町下岩成)を「下」城とするか、或いは、正戸山の東北に位置する洲成山(現深安団地)を「上」城、正戸山を「下」城とするか、幾通りかの説が考えられる(坂本敏夫「正戸山城と勝戸城の疑問」『続山城探訪』所収)。
 いずれにしても、正戸山が「石成上下城」の一部と見て間違いあるまい。

備陽史探訪の会
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