びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(2)
                                 (福山市御幸町) 〈228〉

 この城跡にはじめて登ったのは、高校1年の夏であった。山の神古墳からの帰途、南麓の「ゆるぎ地蔵」の辺りに自転車を置き、南側の急崖を細い道を伝わって登っていった。城跡は夏草で覆われ、僅かに登り口の石垣と、山頂の曲輪跡を確認出来たのみであった。
 山頂からの眺望は、正に絶景であった。当時はまだ眼下に広がる平野は一面の田んぼで、所々に密集した人家が点在している。確かに、ここに城を構えれば、神辺平野は「我がもの」であったろう。
 この小丘については、北の広瀬地区(加茂町)に面白い伝説が伝わっている。大昔、広瀬の芋原に「大人」が住んでいた。ある時、大人が牛の鋤を曳かせていると、大きな石に突き当たり、力を入れるとその石は「ポーン」とはねとんだ。その落ちた石が正戸山である。確かに、北の芋原から見ると、この山は平野の中に転がっている小石に見える。
 比高五〇メートルほどの小さな弧丘に過ぎなかったが、要害堅固な城であったようだ。『西備名区』は云う。
「此城山、弧丘なり。南は故山陽道にて、築き上げたる池堤のことき往還なり。三方は沼田なり。古の姿は往還の南も沼田にて、四方ともに水田なれば、古へ穴の海の故地にて、一小嶋なりしとみゆ…」(巻三十五安那郡下加茂村の城)
 同書の筆者や、地域の人は、「四方沼田」を穴の海の名残に結びつけているが、これは一考を要する問題である。
 穴の海が実在したかどうかについては諸説があるが、神辺平野がその故地であるという考えは、現在否定されつつある。確かに正戸山や神辺黄葉山に立ち、梅雨時の平野を望むと、水田の白い水面は「海」を連想させ、かつてこの地に穴の海と呼ばれる入海が広がっていたことを想像させる。
 だが、それは数万年、或いは数十万年前の地質時代のことであって、人々の記憶に残るような近い出来事ではない。
 長い氷河期が終わって瀬戸内海が形成されたのは、今から一万年前のことと考えられている。以来気候の温暖化は続き、6000年前の縄文時代前期、「海進」(海面の上昇)は最大に達した。学者によって諸説はあるが、それは大体、現海面より3メートルから5メートル高かったとされる。
 現在の地形図で、標高5メートルの等高線をたどって行くと、現在の福山市街地はほとんど水面下に没し、海岸線は西は津之郷町の辺り、北は中津原辺りまで海水が浸入していたことが推定される。科学的には穴の海は神辺平野には存在せず、現在の福山市街地がその故地とするのが正しい。
 正戸山が小さな丘にもかかわらず、要害を誇った「沼田」は、穴の海の名残とするよりも、地元の郷土史家坂本敏夫氏が考察するように、一帯は加茂川の旧河道、氾濫原にあたり、その影響で沼田や池が形成され、城の防御力を高めたとする方が良さそうである。

備陽史探訪の会
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