びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(1)
                                 (福山市御幸町) 〈227〉

 神辺平野の中心からやや北に、平野に孤立した比高五〇メートルほどの小さな丘がある。正戸山だ。登り口は丘の東側にある。案内に従って登って行くと、急な石段は幅3メートルほどの荒れた山道に出会う。昭和五年、神辺平野で行われた陸軍大演習に際して、この山で演習を統監された昭和天皇のために設けられた道である。天皇は仮設された両備軽便鉄道の「正戸駅」から愛馬吹雪号に乗馬され、この道を通って山頂に向かわれた。城跡はこの道の建設によって一部破壊されている。
 山頂には石鎚神社が鎮座し、「御統監之址」と刻まれた大きな石碑が建つ。周囲を見回してみると、山頂の神社の周囲は百坪ばかりの平坦地となり、西と北に一段下がって腰曲輪が設けられている。山頂に登る手前に大きな石を用いた石垣が残っているが、往時のものかどうかは不明である。曲輪の跡は、山頂東側にも残っているが、道路の建設などによって破壊され、どれだけ原形を止めているか分からない。また、以前は山の北側に2反ほどの大きな平坦地が残り、曲輪か或いは居館址と目されていたが、土砂採取によって破壊され、跡形もない。
 城名の「正戸(しょうと)」は「勝戸」「勝渡」とも書き、その由来に関しては諸説がある。『備陽六郡志』は、「せいと山、毛利家領国の節、宮入道正味居城す。その先小藤美作守、城を築きけるゆへ、せうとう山と云いけるを、その後小戸山と書き誤れり」と記し、築城者の名字からせうとう(小藤)山と呼ばれ、後誤って小戸山と書き表すようになったという。六郡志の記述が正しいとすると、現在の正戸山の表記は六郡志が表された18世紀には「小戸山」であったことになる。六郡志と並ぶ郷土史の雄である『西備名区』はまた別の説を紹介している。築城者の名を取って城名としたことは同じだが、それは小藤美作守ではなく、宮三郎入道正渡で、正渡山が「勝渡山」となったと「一本古城記」を引用して記し、城名も「小戸山」ではなく「勝渡山」としている。
 これらの伝えがどれだけ真実を伝えているのか不明だが、南北朝時代、この城が史上に登場した時は「勝戸城」。戦国時代の文書には「勝渡山」とあり、いずれも地名「正戸」を、武者にとっては目出度い「勝」を用いて表記した、と考えた方が良いだろう。
 この城が最初に歴史の表舞台に登場するのは、南北朝の内乱もたけなわの観応二年(一三五一)のことであった。同年八月足利尊氏から備後守護を拝領した岩松頼宥は京都から馳せ下って、この城に拠り、敵対する宮氏や上杉氏の軍勢と度々干戈を交えた。特に同年十月の戦いは激戦で城は陥落の危機に見舞われたが、籠城した三吉覚弁などの奮戦で敵を撃退することが出来た(三吉鼓家文書など)。

備陽史探訪の会
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