びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(15)
                                 (福山市駅家町) 〈226〉

掛迫城跡
 今大山城の陥落によって、神辺合戦は新たな段階に入った。神辺城の外郭線を突破した大内・毛利の連合軍は、天文十六年(一五四七)六月、遂に総攻撃を敢行。一部は城壁を乗り越え、城を陥落寸前まで追い込めた。しかし、この時には、理興を初め、城方の決死的な抵抗で城は陥落するに至らなかった(陰徳太平記など)。
 城方の抵抗が強いのを見た大内方は、ここで戦術を一変。神辺城の向かいの茶臼山に「向城」を築いて兵を入れ、持久戦で城方が屈服するのをまった。
 既に城方は反撃する戦力を失っており、あとは陥落するのを待つだけの状況となっていた。このことは、主力となった毛利家の当主元就が、総攻撃の後隆元を初め三人の子どもを伴って周防山口を訪問し、大内義隆の歓待を受けていることからも良く分かる(毛利家文書など)。神辺城は天文一八年(一五四九)九月、理興が城を脱出して出雲に走り落城した。
 神辺合戦に際して、掛迫城と宮法成寺氏がどのような態度を取ったのかは良く分からない。
 江戸時代の地誌には、法成寺の諸城は、天文二十一年(一五五二)七月の志川滝山合戦に際して、毛利勢の攻撃を受け陥落したと伝える(西備名区)。だが、以前述べたように、志川滝山合戦は、今まで言われてきたような備後南部の宮氏と毛利氏の合戦ではなく、備北の宮氏が尼子氏の勢力を背景に備南進出を目論んで毛利氏と戦った合戦で、合戦時まで備南の諸城に宮氏が拠っていた可能性は低い。もし、これらの後世の伝承に一片の真実が含まれているとするならば、『備後古城記』小井城の箇所に「勝戸山城同時落城」を取り、天文十六年四月、勝渡山城が毛利勢によって攻められた際、同時に掛迫城も攻撃され、落城したと見るべきであろう。
城址に立つ宮周防守の碑
 在地に根を張った国人土豪の勢力は、一朝一夕には失われない。宮法成寺氏もそうである。前に述べたように備中では永禄年間(一五五八~一五七〇)に至っても法成寺氏の存在が知られる(備中重玄寺文書)。
 宮法成寺氏の名前は直接には出てこないが、神辺城が陥落した翌年、法成寺で合戦が行われた記録が残っている。神辺城の城番として入っていた井原長頼が、天文十九年(一五五〇)八月二八日、「備後国外郡法成寺相動くの時」首一つを取って大内氏から賞せられている(県史所収井原文書)。宮法成寺氏の残党が、本領の奪還を図って兵を挙げ、神辺城の大内軍によって鎮圧されたと見ていい。
 その後の掛迫城と宮法成寺氏の運命は杳として知れない。城は荒れ、山に還っていった。
 今、城の本丸に立つと、西側に「宮周防守」と刻まれた1メートル余の石碑がぽつんと建っている。地元の人に尋ねても、「稲荷さん」として祭られていると言うだけで誰も素性を知らない。宮周防守は、或いは宮法成寺氏の最後の当主なのであろうか…。

備陽史探訪の会
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