びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(14)
                                 (福山市駅家町) 〈225〉

掛迫城跡
 戦国時代の福山地方は、一六世紀の半ば、大きな転機を迎える。備後南部の国人衆が盟主として迎えた神辺城主山名理興が、それまでの大内方から一転して尼子方に転じ、一帯は戦火の渦に巻き込まれるのである。
 理興を神辺城主に迎えた立役者が宮法成寺氏の惣領家、今大山城主宮上野介実信であったことから、掛迫城と宮法成寺氏も否応もなくこの戦乱に巻き込まれて行った。
 神辺城を攻撃目標とした大内毛利の連合軍は天文十五年(一五四六)に入って攻勢を本格化させた。海上からは鞆に本陣を置いた大内氏が小早川勢を先頭に手城と大門に橋頭堡を確保。同年四月、坪生に布陣した理興勢を撃破、南から神辺城に迫った。
 陸上からは毛利勢が主力となって、神辺城に迫った。陸から神辺城に迫るには、まず、宮氏の勢力を撃破する必要があった。神辺は宮氏の勢力圏の只中にあり、理興もまた宮氏の力を頼りにしていたためだ。
 大内氏や毛利氏はこの情勢の中、既に大内方に好を通じていた銀山城主杉原氏を大内方に寝返らせ、津之郷山手方面から神辺を目指そうとした。この方面では山北(福山市瀬戸町)で大内方と神辺方の戦闘があったことが知られている(萩藩閥閲録一三六)。この方面の城には理興の宿老藤井能登入道が籠城したという伝承があり(西備名区)、この方面にも理興の兵が配されていたことが知られる。
毛利氏によって攻め落とされた勝渡山(福山市御幸町・加茂町)
 しかし、天文十五年暮、銀山城主杉原豊後守が神辺城を脱出し、大内方に走ると、西南から西国街道沿いに神辺城を攻めるルートが開放されてしまった。あと、神辺城を守る砦としては、神辺城北方の今大山城(神辺町中条)から西方の新市駅家方面の宮氏一族が守る城塞群のみとなった。この宮氏の城塞群も有地(福山市芦田町)の有地美作守がすでに大内氏に応じていたため(新載軍記)、大きく穴が開き、大内毛利方は北方を除いて何処からでも神辺城を攻撃できる態勢となっていた。
 だが、この方面の主将となった毛利元就は慎重であった。北方の脅威を取り除いておかないと、いつ何時情勢が変わって宮氏の反撃を受けるかもしれない。衰えていたとは言え宮氏の脅威を取り除くに越したことはなかった。
 こうして、宮氏と毛利氏の戦いが始まった。毛利氏はまず今大山の支城であった勝渡山(福山市)に攻め寄せた(萩藩閥閲録一〇三)。この城は神辺平野のほぼ真ん中に位置し、標高五〇メートル足らずの小さな丘に過ぎなかったが、眺望絶景でこの城を落とさなければ毛利方は自由に兵を動かすことが出来ない。 
 合戦は短時間で終わったようで、勝渡山を抜いた毛利勢は、直ちに宮氏の本城今大山城に攻め懸かり、同年五月一日、これを攻め落としたのであった(毛利家文書三〇七号)。

備陽史探訪の会
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