びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(13)
                                 (福山市駅家町) 〈224〉

小井城跡を望む
 備後の戦国時代は、守護山名氏の勢力が衰えたため、周防山口の大内氏と、山陰の尼子氏の勢力が侵入し、備後の支配を巡って激しく争うこととなった。
 当初、勢いのあった大内氏は、享禄元年(一五二九)義興が亡くなると、嗣子義隆は北九州の経営に熱中し、安芸備後を疎かにした。このため、中国山脈を越えて尼子氏の勢力が激しく侵入してきた。特に、尼子氏が塩谷興久の乱を鎮圧し、山内氏を降し甲山城を手中にすると、向かうところ敵なく、天文六年(一五三七)頃にはその勢力は鞆をはじめとする沿岸部にまで及んできた。
 宮氏一族が、大内氏から尼子氏に転じたのもこの頃で、『天文日記』によると、天文六年から同八年(一五三九)にかけて、宮上総介、同上野介、同法成寺尾張守は尼子方に属していた。
 この形勢に変化が生じたのは天文九年(一五四〇)から行われた尼子氏の吉田郡山城攻めである。この戦いは、上洛を目指した尼子氏が背後の毛利氏の動きを封ずるために行なった戦いであったが、翌天文一〇年(一五四一)正月、毛利氏の逆襲を受けた尼子氏は雪の中、出雲へ敗退してしまった。
 尼子氏の敗北は、備後に大きな衝撃を与えた。多くの国人衆が尼子氏を見限り、大内方に転じたのである。
 宮氏の一族内でも、内紛が生じた。この戦いで断絶した宮下野守家をめぐって、その遺領を切り取った宮彦次郎がその跡職の安堵を幕府に申請。将軍がその可否を内談衆に諮問するという事態が起った(大館常興日記)。宮法成寺氏が惣領上野介実信に叛したのもこの時であった。
椋山城跡の柱穴
 天文一〇年二月初頭、法成寺兵部大夫は上野介家の持城、服部永谷の椋山城を奪取した。この城には「龍護」なる人物が篭城していたが、上野介家の被官内藤新右衛門尉の働きによって、無事退くことが出来た(平川家文書)。
 時期から見て、尼子氏の敗北に乗じて、大内方に転じた宮法成寺氏が未だ尼子氏方にあった上野介家を攻撃したものと見て間違いないだろう。或いは、この攻勢は宮彦次郎の下野守家遺領の「切り取り」と連動したものであったのかも知れない。
 この「法成寺兵部大夫」は、『備後古城記』に、東法成寺村小井城主として書き上げられている「宮兵部大輔勝信入道」と同一人物の可能性がある。小井城は掛迫城の西南1キロに位置する中世城館で、宮法成寺氏の城塞の一つと見ていいだろう。なお、『備後古城記』には、東法成寺村掛迫城主として「宮治部大輔勝国」の名が書き上げられている。実名に「勝」の字を用いることから、この二人の間に親子、或いは兄弟の関係があったと見る向きもある。しかし、史料の上で確認される宮法成寺氏の受領名、「尾張守」を名乗っていないことから、彼等が宮法成寺氏の惣領であるのか、あるいは一族に連なるものであるのかは、不明である。

備陽史探訪の会
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