びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(12)
                                 (福山市駅家町) 〈223〉

石山本願寺の故地に築かれた大阪城
 石成庄内の掛迫城に拠って、備後国人の一人として勢威を張った宮法成寺氏は、隣国備中国にも勢力を持っていた可能性がある。
 戦国たけなわの天文年間(十六世紀中頃)、宮法成寺尾張守は、宮一族と共に浄土真宗の総本山攝津石山本願寺の証如光教と交渉を持った。これは、宮法成寺氏の惣領、宮上野介實信の婿にあたる御調郡八幡の渋川義陸が渋川氏の本領加賀国野代村の返還を本願寺に依頼したことから本願寺との関係が生まれ、渋川領内の山南にあった真宗の有力寺院光照寺を通して、本願寺と備後の宮氏、出雲の尼子氏が煩雑に情報の交換をするようになった。
 証如光教の日記『天文日記』には、「宮法城(成)寺尾張守」の名は四箇所見られる。その中で注目されるのは、天文七年(一五三八)八月十三日の条である。
△尾張守より返事候、返しとして一腰来り候、次に備中の事申し越し候処、返事には、懇望あるべきの由候とこれを書かれ候、只許容あるべしとの所存なり。
 文意の明瞭でない点もあるが、これによると、本願寺証如が宮法成寺尾張守に出した書状の返事が返礼の「一腰」と共に到来したこと。証如が備中の事で申し送った事にたいしては、「懇望あるべし」と書かれていたこと。それに対して証如は更に「許容あるべし」との返事を出す所存である、と述べている。
 ここで証如が尾張守に備中の事で何を申し入れたか、それに対して尾張守は何を懇望したのか、証如の許容は如何なるものであったのか、今となっては不詳という他ないが、ただ一点、宮法成寺氏が備中にも何らかの権益を有していたことだけは、この記録で推測できる。
南から見た掛迫城跡
 更に、宮法成寺氏が備中でも活躍していたことは次の二点の史料で確認出来る。
 一つは、「備中重玄寺文書」に収められた法城寺三郎左衛門尉将言寄進状である。この寄進状によると、将言は永禄元年(一五五八)、重玄寺幸福庵に銭を寄進している。また、法成寺氏の一族が備中庄氏に仕えていた記録もある。文明十五年(一四八三)十二月、いわゆる「備前福岡合戦」で攻め手の備後勢に味方した備中守護代庄伊豆守元資の「使者」として法城寺掃部助が登場する(群書類従所収「備前文明乱記」)。
 いずれも「法成寺」ではなく「法城寺」とあるが、掛迫城の宮法成寺氏の一族と見て間違いない。『天文日記』の宮法成寺尾張守も原文では宮法城寺尾張守とあり、当時は現代の地名表記(法成寺)ではなく、「法城寺」が名字と地名の表記として用いられていた可能性が高い。
 備中に宮氏の勢力が及んだのは南北朝時代のことであった。貞治三年(一三六四)、上野介家の元祖である宮下野入道道仙は将軍足利義詮から備中国の守護職を拝領した。宮氏の備中守護は短期間ではあったが、この間一族が備中国内に権益を獲得したことは想像に難くなく、宮法成寺氏も道仙の子孫の一人であってみれば、これらの記録はそれを証する資料と言える。

備陽史探訪の会
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