びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(11)
                                 (福山市駅家町) 〈222〉

赤松氏の本拠白幡城址
 備後の戦国は、応仁文明の乱から、直ちに始まったわけではない。京都の幕府も乱の終息後、それなりに再建されある程度の権威を持っていた。備後でも、東軍方の杉原氏一族は、乱の終息後、押領された所領の返還を幕府に嘆願し、将軍の裁許によって所領の返還を受けた。是豊の後、備後守護となった山名政豊も再び守護代を備後に派遣し、大きく変わった備後国人衆の所領を元に戻し、秩序の回復を図った。
 だが、所領を乱前の姿に戻すのには大きな抵抗があった。是豊追放の立役者であった甲山城主山内氏をはじめとする有力国人衆は政豊の下知に背き、守護代や宮氏などの間で山内氏討伐が準備されたこともあった。政豊は国人衆の不満を外征を行なうことによって収めようとした。応仁文明の大乱で山名氏は、播磨・美作・備前の三国を赤松氏に奪われており、その奪回を名目に国人衆の求心力を高めようとしたのである。更に、それまで太田垣氏や宮田氏など宿老を守護代として派遣していたのを、嫡子又次郎俊豊を守護代として備後に派遣することとし、その支配をより一層固めようとした。
 しかし、この企ては失敗に終わった。長享二年(一四八八)八月、播磨坂本の合戦で赤松氏に敗れた政豊は命からがら本国但馬に逃走。この敗戦によって備後の国人衆は多く離反し、俊豊を擁して独立の姿勢を示したのであった。
 この情勢の中、宮氏の一族は依然として幕府奉公衆として将軍の命令に従っており、長享元年(一四七七)九月の将軍義尚の近江出陣には一番衆の宮平次郎をはじめ、一族挙って近江に出陣した(長享元年九月常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到)。
 宮法成寺氏が将軍の近江出陣に従軍したかどうかは明らかでない。前掲書によると、この時、一番衆の宮平次郎、四番衆の宮近江守、同弥太郎、五番衆の宮下野守政盛、同五郎左衛門尉盛秀が将軍に従って近江に出陣しているが、その中に宮法成寺氏と思しき名前はない。
 奉公衆として将軍に仕えた宮一族の名前が判明する史料としては、もう一つ、「東山時代大名外様付」がある。これは明応二年(一四九三)十代将軍足利義材の河内出陣時の従軍者の名簿と言われ(1)、それによると、一番衆の宮常陸介、四番衆の宮上野入道、同若狭守、同又次郎、同近江守、五番衆の宮下野守、同五郎、宮伊賀入道、同五郎左衛門尉、同中務丞が将軍に従って河内に出陣したことが分っている。宮法成寺氏が何れの宮氏にあたるのか史料は何も語ってくれないが、本拠法成寺が以前述べたように石成庄内に位置するところからすると、石成庄を本領とした宮上野介家の一門。すなわち、奉公方四番衆に属した宮氏、と考えていいだろう。
(1)今谷明「東山時代大名外様付」について『史林』)六三―六)

備陽史探訪の会
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