びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(10)
                                 (福山市駅家町) 〈221〉

甲山城址
 「かしわ村」の合戦は足掛け三年にわたって行われ、宮氏の敗北に終わった。すなわち、「渡辺先祖覚書」によると、追い詰められた宮一族は、惣領の下野守教元をはじめ、「悉く腹を切り」備後は残るところなく山名是豊の下知に従ったという。
 だが、これは是豊の没落の始まりにしか過ぎなかった。宮一族が「かしわ村」で苦戦していた頃、備後・安芸では東西両軍の戦線に大きな変化があった。それまで東軍に属して、三吉氏と対戦していた安芸の毛利豊元が将軍足利義政や管領細川勝元(東軍の首領)の諫止を振り切って西軍方に転じ、三次口から撤兵したのである。また、「かしわ村」と共に、この地方の東西両軍攻防の焦点であった小早川氏の高山城でも、情勢に変化が起った。東軍方に属した沼田小早川氏の高山城(三原市真良)は、文明五年(一四七三)以来、西軍方の包囲攻撃を受けていたが、是豊の度々の救援も空しく、文明七年(一四七五)四月、遂に開城、小早川氏は西軍方と講和を結ぶこととなったのである。これは是豊にとっては屈辱以外何者でもなかった。しかも、その講和の仲介をしたのは打倒したはずの宮氏の一族、若狭守政信と五三郎盛忠であった。
 宮一族は是豊の猛攻にも関わらず、生き延びていた。それは、身体に例えれば、「かしわ村」は「頭」にしかすぎず、首から下にあたる神石郡から奴可郡にかけての宮氏の勢力圏は無傷で残っており、自害した教元に替わって、上野介家の政信と下野守家の庶子盛忠が、「備後両宮」として宮氏の指揮を執ることによって、息を吹き返した。
二の丸から本丸を望む
 備後の西軍方は備北の諸城に立て籠もって是豊に対抗しようとした。是豊も総力を挙げて備北に攻め入った。この時、備後西軍の主力は山内氏の甲山城に立て籠もり、三吉、江田氏など一部の国人衆はそれぞれの居城に籠城し、是豊に対抗した。
 文明七年(一四七五)六月、是豊の主力は山内氏の居城甲山城(庄原市本郷)に取り懸かった。一方、是豊の嫡男七郎頼忠、小早川氏を中心とした別働隊は、江田氏の居城旗返城に向かった。山内氏の居城甲山には和智、湯谷、尾越氏、田総氏など西軍方の国人衆が挙って籠城し、是豊の軍勢を迎え撃った。
 是豊はあと一歩というところまで西軍方の国人衆を追い詰めた。情勢は正に守護に対する国人衆の反逆、「国人一揆」の様相を示していた。
 だが、同年夏になると情勢は逆転した。安芸の毛利豊元(元就の祖父)が旗返城の後詰として江田繁カ峰に出陣し、同城を攻撃中の山名頼忠、小早川氏の軍勢を切り崩すと、是豊の軍中に動揺が走った。前に小早川氏の高山城を見捨て、さらにここで毛利氏の軍勢を撃退できなかった是豊は、味方の信頼を一気に失い、崩れたった軍勢を前に是豊はなすすべを知らなかった。軍勢は離散し、自身も命からがら、石見に「崩れ退」いたのであった。備後の応仁の乱は西軍方の勝利に終わった。 

備陽史探訪の会
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