びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(9)
                                 (福山市駅家町) 〈220〉

かしは村   柏遠望
 宮一族が立て籠もった「かしわ村」は、山中に孤立した一集落で、かつては二十数軒の人家を数えたが、現在では限界集落を通り越して消滅集落寸前となっている。ただし、人影が絶えたわけではない。新市や戸手などにあるショッピングセンターから車で10分の距離にあり、麓から畑に「日勤」されるかたも多い。
 この地の周辺に多くの山城遺構が確認されたのは、1980年代のことであった。集落の西南側にゴルフ場の建設が持ち上がり、その事前調査によって今まで知られていた以上に城郭遺構が広がっていたことが判明した。その範囲は東西南北とも1キロ以上にわたり、今まで別の山城と考えられていた服部永谷の椋山城も、広義の「かしわ村」に含まれていた可能性が浮上した。もしそうだとすると「かしわ村」はとてつもない巨大な城塞となる。
 ただし、多くの城郭遺構は、後の戦国山城に見るような本格的な普請を施したものではない。尾根を堀切で区画し、その間を削平して曲輪としたのみの簡単な構造だ。が、そのような原始的な山城遺構が、数平方キロにわたって点在し、それぞれが独立した山城として機能するように配置されていた。しかも、一部実施された発掘調査によると、それぞれの山城跡から出土した土器に畿内系や在地系などの差異が認められるという(1)。
 これは何を意味しているのか。それぞれの山城に出自を異にする武士団が守備についていたことを意味しよう。そう、これが『渡辺先祖覚書』に「取分け宮下野守殿同じき彼の一門かしわ村に引き籠り居られ」が遺跡の上に現れた姿なのである。
 この現在地表に残る城郭遺構から推定すると、宮一族は、惣領下野守教元を中心に、一族がそれぞれ守備を担当した山城に籠城し、全体として東軍の攻撃に対処しようとした。中には、はるばる京都から手勢を引きいて籠城した一族もいて、彼等が守備した曲輪には「京都系」の土師器が残された。これが曲輪によって異なる系統の土器が残された理由だ。
 宮法成寺氏も一族挙って「かしわ村」に籠城した筈だが、一部の者は居城である掛迫城に居残った可能性もある。
 『渡辺先祖覚書』によると、宮氏と山名是豊の合戦は「いっきゅうりんそう」「つつみの城」などでも行われたとある。「いっきゅうりんそう」は一宮(吉備津神社)の「輪蔵」の意味で、今も吉備津神社の北に地名を残している。「つつみの城」とは、神辺町下竹田の在地武士鼓氏の居城のことと思われ、合戦は新市から神辺までの広い範囲を舞台にして行われた可能性が高い。その場合、掛迫城は神辺平野北側の拠点となるべき城塞であり、宮氏が当初から放棄した可能性は低く、或いは当主尾張守自身が籠城し、かしわ村東方の拠点として、東軍方と対峙していたのかもしれない。
(1)新市町教育委員会「四五迫城跡」1992年3月

備陽史探訪の会
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