びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(7)
                                 (福山市駅家町) 〈219〉

京都、船岡山の石碑
 応仁の乱は、応仁元年(一四六七)正月、上京の上御霊社に陣した東軍畠山政長の陣を西軍の同義就が襲撃したことで幕を開けた。この時、東軍の細川氏は将軍義政の命を守って動かず、政長はあっけなく負け、身を隠した。
 本格的な合戦は、同年五月、東軍方の一色邸攻撃ではじまった。上御霊社の合戦で後れを取った東軍の主将細川勝元はひそかに全国に動員令を発し、圧倒的な軍勢で西軍方を叩き潰そうとした。
 東軍優勢ではじまった大乱は、西軍方に味方した周防大内氏の上洛によって一変、西軍有利の状況となった。
 こうした中で起ったのが相国寺の戦いであった。相国寺は周辺の幕府、内裏と共に乱の開幕と同時に東軍方が占拠し、東軍正義の象徴となっていた。
 応仁元年十月、相国寺に立て篭もっていた武田信賢、細川勝之を西軍方が攻撃、一時はこれを占領した。その後再び東軍が奪回したが栄華を誇った相国寺の伽藍は焼失した。これが、大乱中最大の激戦「相国寺の戦い」であった。
 宮法成寺氏の名が登場するのもこの戦いの最中であった。この時、相国寺には同じ東軍に属した備後山名是豊勢も籠っていた。この東軍勢に同じ備後の宮法成寺尾張守の手勢が突っ込んだのである。「渡邊先祖覚書」は言う、
「渡辺先祖覚書」左から二行目に「法成寺尾張守」の名が見える
 「相国寺お花坊の大合戦に、法成寺尾張守方七郎次郎にて、□時彼の一類一所に候て家(渡邊)太刀を打ち、高名仕り候是豊(山名)様御感状今に之有り候…」
 意味不明のところもあるが、この合戦で同じ備後勢同士が敵味方に分かれ戦ったことが分かる。
 ただ、ここで注意を要するのは、「法成寺尾張守方七郎次郎」とあることである。或いは、宮法成寺氏では当主尾張守は直接参陣せず、七郎次郎なる人物に兵を与えてこの戦いに参陣させたのかもしれない。鎌倉時代以来、家臣の手柄は主君の手柄とされていたからだ。
 相国寺の合戦は、応仁の乱の山場となった戦いであったが、勝敗は決せず、戦乱は地方に広がっていった。各地にくすぶっていた家督争い、国人衆の守護に対する不満など、争いの種はそれこそ星の数ほどあった。
 備後でも、応仁元年八月には早くも合戦の火蓋が切られた。西軍に味方した、山内新左衛門豊成(庄原甲山城主)の軍勢は世羅郡に南下し、世羅郡小世良で東軍方の軍勢を破った。西軍方の進撃は更に続き、文明元年(一四六九)二月には東軍に味方した杉原氏領内に侵入し、杉原苧原(福山市赤坂町)で東軍小早川氏の軍勢と衝突した。宮法成寺氏もこの情勢に応じて帰国し、西軍方の一翼を担って、東軍方国人衆の討伐に血道を上げていたに違いない。

備陽史探訪の会
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