びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(6)
                                 (福山市駅家町) 〈218〉

大乱の原因をつくった八代将軍足利義政
 駅家町法成寺を苗字の地とした、宮法成寺氏が史上に本格的に登場するのは、応仁の乱に際してであった。
 応仁の乱は、日本史上の中でも大変重要な戦乱であった。きっかけは畠山・斯波といった有力守護大名、将軍足利氏の跡目をめぐる争いで、時代を問わず見られる「お家騒動」であった。
 この単純な「お家騒動」が大きな戦乱に発展したのは、相続法や土地制度など、社会の根底をなす秩序に大きな変化が起っていたからである。
 本来、武家社会の相続は「分割相続」が原則であった。兄弟(女子を含めて)には親の財産が多少の大小はあっても等しく分け与えられ、嫡子と定められた子が「惣領」として一族を指揮した。
 ところが、分割相続を繰り返すと、所領規模が縮小し、御家人として幕府の奉公に耐えれなくなった。そこで、取られたのが子の内一人が嫡子として全所領を相続する方法であった。これを「嫡子単独相続」という。この相続法の変化は、大体、鎌倉時代の末期から南北朝を経て、室町時代の中期には社会の主流となった。しかし、この時代の嫡子単独相続は、後の江戸時代のように、能力の有無を問わず長男が相続するというような制度が確立していなかった。親が「器量の仁」と認めた子どもがたとえ末子であれ、嫡子として家を継いだ。他の兄弟は、家来並に「扶持」が与えられるのみで、所領を分け与えられることは少なくなった。
 結果、各大名国人の家では、「誰が家を継ぐか」が大きな問題となった。しかも、この時代、上から下まで「衆議」といった「世論」が重んじられていた。家の嫡子を決めるのも家臣たちの「支持」が重要だった。将軍家の場合も、四代将軍義持は死に臨んで誰を跡目にするか明言しなかった。その理由は、自分が指名しても幕府の宿老が認めなかったら意味がないと考えたからであった。
 よって争いの火種は全国津々浦々に存在し、一たび京都に戦乱の火の手が上がるや戦いは瞬く間に全国に波及して、首謀者たちにも制御不能な大乱となってしまった。
 応仁の乱は、備後でも典型的な形で現れた。現職の守護山名是豊が父で西軍の首領となった山名宗全と対立し、東軍細川勝元に味方したため、国内の国人土豪はそれぞれの打算で東西両軍に味方し、勢力拡大に凌ぎを削ることになった。
 戦いは、当初京都で行われ、東軍山名是豊、西軍同宗全から軍勢催促を受け、上洛して合戦に参加した。東軍には杉原氏一族、草戸の渡邊信濃守家などがそれぞれ手勢を率いて参陣した。西軍方は、和智、江田、山内の一族が山名氏の本拠但馬国に馳せ下り、東軍細川氏の分国丹波に侵入した。
 宮法成寺氏の属する宮氏の一門は、奉公方一番に属した宮左衛門大夫以外は総じて西軍に属した。乱の勃発直後の応仁二年(一四六七)八月、幕府殿中に伺候していた宮下野守教元、同若狭守政信は西軍に内通しているということで、他の十人の奉公衆と共に幕府から追放された(『応仁記』)。

備陽史探訪の会
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