びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(5)
                                 (福山市駅家町) 〈217〉

北より望む掛迫城址
 掛迫城が今まで考えられた規模より、随分大きいものであったことは、近世の文献に記された「城名」からもうかがえる。
 旧福山藩内の最も基本的な地誌である『福山志料』はかけ迫城について、次のように記している。
「掛迫城 宮治部太輔勝岡(備後古城記)今コノ所ヲ城谷ト云」
 「城谷」が掛迫城の別名とすれば、城の縄張りからも推定されたように、城の正面は東の平野側より、この西の谷筋と考えた方がいいだろう。
 この考えが正しいとすると、広義の掛迫城は、この谷を含んだ規模雄大なものとなる。
 現在、掛迫城の西北の谷には、二つの溜池が築造され、それぞれ城が谷上池、同下池と呼ばれている。そして、この谷を囲むように、北側の山頂から二筋の尾根が西南に伸び、その東方の尾根のピークに狭義の掛迫城が存在する。
 残念ながら北側の山頂部には北部工業団地が建設され、今となっては城跡の遺構を探る手立てはないが、地形から見て、尾根上には曲輪跡が残っていたはずだ。
 このように、山頂から両腕を広げるように谷を抱いた地形に山城を構えるのは、中世武士が好んだことである。備後南部では、同じ宮氏の亀寿山城(新市町)、今大山城(神辺町)がこの形式であり、備後北部でも、和智氏の南天山城や国広山城にこの形態が見られ、総じて南北朝期や室町前期にさかのぼるような古い城に見られる築城法である。
 こうした古い形式の城は、或いは当時の武士団のあり方を示したものかもしれない。
 例えば、安芸の有力国人小早川氏の居城高山城である。同城は南北二つの峯とその間の谷間を利用して築かれた山城で、現在でもそれぞれに多くの曲輪跡が残っている。しかし、曲輪のあり方は本丸を中心とした機能的な構造ではなく、それぞれの尾根上の曲輪は、各々が独立した山城としても存在しえた構造となっている。
 この高山城(妻高山)に対して、戦国期に小早川隆景が築いた沼田川対岸の新高山(雄高山)城は、全く違う構造をしている。山頂の主曲輪群を中心に、各々の曲輪群は有機的に配され、近世の城郭のように本丸を防御する為に二の丸、三の丸が設置される構造となっている。
 この二つの高山城は、それぞれの時代の小早川氏の在り方を示していると考えられる。古い高山城の曲輪群が並列して存在し、本丸の優位性が確立されていないのは、この段階の小早川氏が鎌倉以来の、半ば独立した庶子家を惣領家が統括するという古い惣領制の下にあったことを示している。それに対して、新しい高山城が本丸を中心とした曲輪群の階層性が確立しているのは、隆景が小早川氏を相続した段階で、反対派を粛清し、小早川家中の指揮権を掌握したためと考えられよう。
 こうした目で、掛迫城を見ると、狭義の掛迫城は、「城谷」と呼ばれた広義の掛迫城の一部に過ぎず、城主が一族を「家中」として束ねる段階の前の、古い惣領制の段階にあったことを示している。

備陽史探訪の会
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