びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(4)
                                 (福山市駅家町) 〈216〉

本丸に建つ 「宮周防守」 の碑
 法成寺の地をはじめて訪れたのは、中学3年生の夏であった。当時、8ミリカメラで古墳や城跡を撮影するのに熱中しており、県史跡の山の神古墳を訪れたのが最初であった。山の神古墳は当時荒れに荒れており、古墳の北側から墳上に出る「トンネル」を通って石室に辿り着いた。このトンネル、何時誰が掘ったのか、今も残っているのか。一度確認したいと思っている。
 掛迫城址を訪ねたのは、それから2年あまり経った1971年の初冬のことであった。福山ユースドマップクラブという同好会を立ち上げ、20メートルの巻尺を持って、福山周辺の山城跡を手当たり次第調査に廻っていた頃である。
 城跡の存在は、『西備名区』などの江戸時代の地誌で知っていた。仲間5名で、旧国道182号線を東城別れの手前まで行き、倉神社や正福寺の前を通る旧道を北養護学校(現特別支援学校)まで進み、ここから右手に道を取り、掛迫集落に入った。
 城跡の場所は、集落の人に尋ねた。70くらいの老人であったが、親切に教えていたき、城跡を目指した。掛迫集落の西を北に登る道があり、稜線に出ると東西に走る山道にぶつかった。城跡は、この山道を50メートルほど西に進んだところにあった。最初は、城址の北を限る土塁と空堀を越えて切岸を攀じ登って本丸に到達した。
 南北40メートルほどの楕円形の平坦地で中央西に「宮周防守」と掘られた石碑が建っていた。我々は本丸に着くと、老人に教えてもらった瓦や焼けた米がないか血眼になってさがし廻った。城跡の位置を教えてくれた老人は、ここに「金の茶釜」が埋まっており、昔大勢の人が探しに来たが、瓦や焼けたモミしか出なかったと話していたからだ。
 この時作成した実測図によると、掛迫城は東北から西南に伸びた低い丘陵を、南北2箇所に設けた堀切で城域を画し、その間に大きな曲輪を三段築き、周囲に数ヶ所の腰曲輪を設けただけの簡単な構造の山城であった。
 焼けた瓦やモミはいくら探しても見つからなかった。曲輪は岩盤を削って設けられたようで、表土は浅く、数箇所に室町時代の土師器の破片が散らばっているのみであった。
 比高40メートルの低い丘の上に構えられた城とは言え、その斜面、特に南側は断崖状に麓に落ち込み、人を寄せ付けない。正に戦国の城塞であった。
 以後、この城跡にはことあるごとに足を運び、遺跡の確認を行なって来た。平成7年には「山城探訪」の事前調査で、平成18年には「福山古墳ロード」の案内板の設置作業で…。
 訪ねる度に新たな発見があった。城跡は南北2箇所の堀切の外側にも広がっていた。尾根を更に南に歩くと、掛迫古墳のあるピークから西南にも人工的に削平された曲輪跡があるようである。更に城の曲輪の配置を見ると、防御正面は東南ではなく西北の「城が谷」であった。これは何を意味するのか…。

備陽史探訪の会
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