びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(3)
                                 (福山市駅家町) 〈215〉

門田屋敷の土塁 
 駅家町の法成寺は、典型的な「谷田」地帯である。吉備高原からなだらかに神辺平野に落ち込む丘陵は、平野に接するところで襞条に枝分かれし、その間の谷に耕地が分布する。
 これらの耕地は、現在は江戸時代以降に築造されたため池によって灌漑されているが、中世に於いては、谷頭から流れる自然流水(天水)によって潤されていた。よって、その規模は、現在と比べてはるかに小規模なものであった。
 今、耕地の様子を見ると、水田の間に山林が点在しているように見えるが、かつてはその反対で、丘陵の間に小規模な水田が点々と分布する、山林の中に水田が見え隠れするといった景観であった。
 このような、谷田地帯は却って中世の武士団が本拠とするには好都合であり、その開拓も彼等中世武士によって行われることが多かった。その単位を「名」という。名は田畠・屋敷をひとまとめにした単位で、名主がその年貢を請け負って領主に差し出した。耕作は名主の手で行われることもあったが、下作人と呼ばれた零細農民が耕作を請け負うことも多かった。
 「名」は大規模なものは一郡規模のものもあり、こうした大きな名の名主が「大名」、数町単位の小さな名主が「小名」と呼ばれた。名主は中世に入ると侍身分を持ち、鎌倉殿の御家人になることも多く、大名、小名はその後豪族的武士団の格式を意味する言葉となった。
 こうした古くから開けた谷田地帯だけに、法成寺には至る所に中世の痕跡が残っている。
 先ず紹介したいのは、後世大庄屋門田家の屋敷となった中世の土居屋敷址である。門田家の広壮な屋敷址に入ると、右手に築山の跡があり、その向こうに高さ1、5メートルほどの土手がくの字上に北に延びている。中世武士の居館「土居」に典型的に見られる「土塁」の跡である。門田家は中世にさかのぼる家系を持つ旧家だが、この地に入ってきたのは近世初頭と伝わっている。江戸時代に土塁を巡らすような屋敷を構える必然性はないから、これは門田家が入る前に、この地に本拠を構えた名主(中世武士)の居館の跡に違いない。
 このような中世武士の居館と考えられる地形は、門田屋敷以外にも点々と残っている。そうした場所は、谷と谷に挟まれた低い丘陵の突端で、現在は屋敷や寺院、神社の境内地になっている場合が多い。そして、こうした古い屋敷地の周辺には中世にさかのぼる五輪塔が道路際や墓地の中に点在している。中世の名主たちの墓石と見ていいだろう。
 地名の中にも中世にさかのぼるものもある。かつて、備陽史探訪の会の出内博都氏(故人)の調査によると、法成寺には「門前」「竹ヶ端」などの中世武士の居館に由来する地名、「四日市」などの市場地名、「行信」「寄信」など、かつての「名」の存在を示す地名などが残っているという(注1)。
注(1)出内博都「地名調査雑感」(備陽史探訪の会刊『山城志』第10集)1991・4月

備陽史探訪の会
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