びんご 古城散策・田口義之

◆掛迫城と宮法成寺氏(2)
                                 (福山市駅家町) 〈214〉

法成寺サコ遺跡より 
 法成寺の地名の初見は、応安七年(一三七四)の奥書を持つ、油木八幡神社蔵の「大般若経」巻四一〇である。この奥書によると、同巻は、「応安七季甲、大祓十三日、備後岩成庄於法成寺仏摂寺住侶□□法師」が寄進したもので採筆は良盛という人物であった。
 ここでいう「法成寺に於いて」を寺の名前と見る向きもあるが、その次に「仏摂寺住侶」とあることから、仏摂寺の所在した「岩成庄内の法成寺(地名)」とした方が良いだろう。
 岩成庄は史料上では「石成庄」と表記される場合の多い中世の荘園である。南北朝時代、足利尊氏が建立した天竜寺領として見え、「下村」「上村」「門田」などの地名が古文書に散見する。近世以降は深津郡上下岩成村という狭い地域の呼称となっているが、この史料に「岩成庄於法成寺」とあるように、神辺平野のほぼ西半分を占めた広大な荘園であった。『備陽六郡志』外編品治郡新山村の条によると、「慶長よりはるか後まで、神辺より新市までの間を岩成村といふ。新山は仁王堂より福盛寺までの山をいひしが、神辺より新市までの間を二十か村に分ち、当寺(福盛寺)の近辺高三百三十石余を新山村と」したという。
 次に法成寺の地名で注目されるのは、系図の原型が中世前期にさかのぼると考えられる「藤姓三吉氏系図」に法成寺の地名を名字としたと考えられる武士の名前が登場することである。
 この系図は、江戸時代後期の「三次町国郡志」の「城主御続代記」に収録されたもので、鎌倉時代から慶長五年(一六〇〇)まで三次盆地を支配した藤原姓三吉氏の系譜が記され、それによると、三吉家の元祖兼範の次男兼秀の三男、「宮大夫」兼能の四男に「法成寺新次郎」秀政が現れる。この系図に登場する三吉家歴代では、応安七年の文書に登場する九代「三吉式部大夫」秀明から他の史料で実在を確認出来る(山内首藤家文書)。秀政は三吉四代信兼と同世代で祖父が次男、父が三男、自身が四男という位置づけからすると、ほぼ「建武の頃」とされる三吉家五代秀高の活躍年代に等しい。
 次に、法成寺氏が宮氏の一族で、その宮氏も三吉氏の一門というこの系図の信憑性が問題となる。内容を検討すると、鎌倉時代から南北朝時代にかけての世系が詳しく記され、南北朝以降は歴代のみ、そして戦国期に入ると再び系図の内容が豊富になるという形態は、同じ備後の山内首藤家系図や他の東国武士団に普遍的に見られる形態で、系図の原型が作られた時期は、相当古いことが想像される。全く別の武士団と考えられてきた宮氏と三吉氏を同族とするこの系図を、この点だけから否定する向きもあるが、家紋に「吉」字を共有すること(注)、系図に出てくる法成寺氏が戦国期に「宮法成寺」として史料に登場するなど、宮氏と三吉氏には関連する部分もある。系図自体の検討は今後の課題としたい。
(注)「見聞諸家紋」

備陽史探訪の会
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