びんご 古城散策・田口義之

◆草深城と岡崎氏(3)
                                 (福山市沼隈町草深) 〈212〉

「奇の宮のこま犬」 
 鎌倉幕府の滅亡によって、大仏氏の山南支配は終り、同所は替わって足利氏の一族渋川氏の所領となった。
 渋川氏は足利氏の一族で、上野国群馬郡渋川保を名字の地とし、足利氏が天下を取ると共に、一躍大名の座に躍り出た武士である。
 山南が渋川氏の所領となったことが確認されるのは、観応三年(一三五二)六月二九日の渋川直頼譲状(賀上文書)で、この日、直頼は嫡子金王丸(義行)に下野国足利庄内板倉郷以下一二箇国二二ヵ所の所領を譲与した。この中に備後国御調別宮、同山田村と共に山南郷の名もあった。
 以後、渋川氏は戦国時代末期まで備後の所領を確保したが、なかでも、義行の後裔渋川義陸が本拠を備後国に移すと共に、同氏の本領としてその滅亡に至るまで確保された。
 備後渋川氏は本拠を三原市八幡町の小童城に本拠を置き、戦国の小大名として備後南部に影響力を持った。室町時代、九州探題を継承した名門であっただけに、備後に土着してからも「今探題」と呼ばれて、それなりに尊重された。大内氏や尼子氏の勢力が備後国に侵入してきても、渋川氏の門地は両氏を凌いでおり、義陸の跡を継いだ義正は大内、尼子の両氏を和睦させ、共に上洛することを画策している(石山本願寺日記)。
 この時期、草深城に誰が拠っていたのかは明らかではない。岡崎氏は伝承によると、延元元年(一三三六)、足利尊氏より石成庄内の地を拝領して、同地に本拠を移した。渋川氏と同じく岡崎一族も鎌倉幕府の滅亡によって、再び歴史の表舞台に立ったと見える。
 渋川氏の山南支配は、周辺の国人土豪を被官に組織することによって行われた。渋川氏の被官となった者の中には木梨氏や高須杉原氏のように「国衆」としての家格を持つものもいて、渋川氏の門地が如何に高かったかを知ることができる(萩藩閥閲録六七)。
 位置的に見て、草深城は渋川氏の時代も同氏の重要な城館として機能していたと思われる。先に述べたように、渋川氏は内陸部の三原市八幡町に本拠を置いており、山南や藁江といった沿岸部の所領を支配するためには海路が重要な意味を持った。これら沿岸部の所領支配は、「探題山」と呼ばれた尾道市吉和の鳴滝城を経由して行われ、その間の連絡は高須杉原氏など海に通じた被官衆によって行われた。草深城は彼等によって利用されたと見て良いであろう。
 天正元年(一五七三)、渋川氏三代義満に子がなく渋川氏が断絶すると、一帯は毛利氏が直接支配することとなり、城は役目を終えた。
 『西備名区』は岡崎氏の後の草深城主を河野氏とし、豊臣秀吉の四国攻めで没落した河野通直、同通春を挙げ、小早川隆景の援助によってこの地に居住したと述べている。河野通直は天承十五年(一五八七)竹原で亡くなっており、本人が直接この地に来たことはないだろうが、一族の者がこの地に土着したことは大いに考えられることである。

備陽史探訪の会
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