びんご 古城散策・田口義之

◆草深城と岡崎氏(2)
                                 (福山市沼隈町草深) 〈211〉

「奇の宮八幡宮」 山門 
 城跡を訪ねるには、まず沼隈町の中心部草深を目指す。福山方面から県道を進むと、やがてホールや旧沼隈町役場(現支所)のある町の中心に到達する。福山駅前からだと車で30分というところだろうか。「福山市沼隈支所入口」の交差点を左折、150メートルほど行くと美容院の手前に八幡さんへの参道があり、道なりに行くと境内駐車場に到着する。
 山頂は南北に細長い平坦地となっていて、一番高いところに寄の宮の社殿が建っている。よく見ると、北に一段、南に一段の曲輪が築かれていたようで、現在それぞれ神社の施設が建っている。さらに、その東に一段下がって南北に細長い平坦地があり、これも城の曲輪として利用されていたようである。旧来の参道は北に位置し、旧県道に面して立派な石鳥居が建ち、石の階が境内に延びている。周囲は断崖となって人を寄せ付けず、中世の城郭としては格好の条件を備えている。
 城主として最初に名が出てくるのは岡崎氏である。『西備名区』によると、この城に拠った岡崎氏は、相模の大名として知られた三浦氏一門の岡崎氏で、健保元年(1213)五月の「和田合戦」に敗れた岡崎実忠がこの地に蟄居し、やがて勢力を得てこの地に築城したという。
 岡崎実忠は、実在の人物で、石橋山の合戦で名誉の戦死を遂げた佐奈田与市義忠の嫡男で、岡崎氏の名跡を継ぎ、与市左衛門尉実忠を称した。しかし、史実の上では、和田合戦で討死しており、この地に来たとは考えられない。岡崎氏の来住が史実とすれば、それは北条氏の一門大仏氏との縁を頼ってのことであろう。
城址に建つ「寄の宮八幡宮」
 前回紹介したように、鎌倉時代、一帯の支配者は北条氏の一族大仏(おさらぎ)氏であった(厳島反故裏経文書)。ただし、大仏氏は連署や評定衆などの幕府の重職に就いており、自身がこの地にやってきたとは考えられない。一族・内の者を代官として派遣したはずである。その一人が岡崎氏であったのではなかろうか。先に述べたように、岡崎氏は有力御家人三浦氏の一門であったが、和田合戦で敗れ、歴史の表舞台から姿を消している。だが全く亡んでしまったわけではない。一族の中には、北条氏の「御内人」となって勢力を温存したものもいた。現に、岡崎実忠の後裔と称する江良・倉光・石崎氏などは後に石成庄(福山市御幸町から駅家町一帯)に進出し、一族は戦国末期まで土豪として力を持っていた(毛利家八箇国時代分限帳など)。こうしたことから岡崎氏の来住は史実と見ていいだろう。
 岡崎氏がこの地にやって来た頃、この城は深く入り込んだ入海の奥に浮かんだ小島であった。はっきりしたことは言えないが、城跡の南か西には港が存在したはずである。岡崎氏はこの城に拠って大仏氏の所領山南の管理にあたると共に、港に出入りする船舶の監視に当たっていたと見ていいだろう。

備陽史探訪の会
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