びんご 古城散策・田口義之

◆草深城と岡崎氏
                                 (福山市沼隈町草深) 〈210〉

草深城址に建つ 「奇の宮八幡宮」
 海に近い所に残る中世山城跡を研究する場合、気をつけなければならないのは、周辺の地形の変遷である。平野に孤立する山城跡と思って調べていくと、周囲の平地は近世の干拓地で、城跡のある丘はかつての「島」であったりする。「島」と平野に孤立する山城では、城の由来や歴史を研究する際のアプローチは全く変わってくる。城の拠って立つ基盤が違うのだ。
 海岸に立地する中世城跡は「海賊城」といって、海賊衆が拠点とした城である。海賊衆の経済基盤は「海」から揚がる権益である。海賊衆にはそれぞれ「縄張り」があって、その縄張りを通行する船は「警固料」を払わなければならない。また、海賊衆の拠点は港湾に立地することが多く、港に出入りする船は彼等に「関銭」「帆別銭」という入港料を払わなければならない。その額は馬鹿にならないもので、大きな港湾の場合、年額数百貫から数千貫に及んだりする。経済が活発化すればするほど、時代が降れば降るほど、その額は増えるわけで、戦国時代、海賊衆は「沖家」と呼ばれて、陸の大名並の力を持った。
 近世の干拓地を取り払うと、海岸から数キロ離れた、今は全く内陸部になったようなところにも「海賊城」の跡が残っている場合がある。沼隈町草深の草深城がその代表だ。
草深城址付近 (国土地理院)
 福山市街地から沼隈方面に行くと、山田、山南の地名があるように、二つの峠を越えて旧沼隈町の中心部草深に達する。草深城は、このかつての町の中心のやや東の、小さな丘の上に存在する。東の麓には市立千年小学校が建ち、城跡には「寄の宮」八幡宮が鎮座しているので、場所は簡単に分かるはずである。
 地図で見ると、城跡のある丘は標高34メートルを測り、南北300メートル、東西150メートルの平野の孤立した丘である。だが、よく見ると、城跡のある丘から少し内陸部に入った辺りから、3キロ南の海岸までの、山南川沿いに開けた平野は近世以降の干拓地であることに気付く。城があった時代、この丘は深く入り込んだ入り江の奥に浮かぶ小島だったわけで、海賊城としては絶好の立地を占めていた。城跡を現在の地形で判断してはならない典型的な事例の一つだ。
 城跡に鎮座する寄の宮八幡宮は、現在でも上・中・下山南と草深の産土神であるように、城は山南の歴史と密接に結びついていた。
 山南は鎌倉時代、執権北条氏の一族大仏氏の所領となっていた。鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、各地の港湾を掌握することに熱心であった。経済を握ることがすなわち権力を維持する近道であったことをよく知っていたわけだが、大仏氏がこの地を獲得したのもその政策の一環であったろう。その前面の海岸は、鞆、尾道を結ぶ当時の重要な航路にあたっていた。

備陽史探訪の会
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