びんご 古城散策・田口義之

◆大門城山と岡氏(5)
                                    (福山市大門町) 〈209〉

枝広城址より見た大門湾
 土肥日露之進氏や大門郷土史研究会の調査(注Ⅰ)によると、現大門町域には、大門城山と明知山城の他に3ヵ所の中世城跡が存在したという。
 中でも立地、形状からして本格的な山城であったと推定されるのは烏帽子山城である。大門城山の西南わずか500メートルに存在した城跡で、現在銀河学園の建設によって破壊され往時の面影はない。五箇八幡の境内となっており、造成工事の事前調査によって多量の中世土器が出土し、ここに何らかの施設があったことが確認されている。
 旧大門湾は内陸に深く湾入した入江で、古くから港湾として利用されていたため、船舶の出入りを監視するための「海賊城」が存在した。湾口の東に存在したのが「防路の鼻」の砦、西に位置したのが「牛の首」の砦であった。いずれも近世以降の干拓によってほとんど遺構を残していない。
 この地の港(現在「津之下」の地名を残している)を支配した者は、湾口に牛の首、防路の鼻、港の直上に烏帽子山の城を築くことによって外敵の侵入を防いだ。
 こうした海賊城の存在は、大門の支配者が内陸部の国人ではなく、「海賊衆」と呼ばれた海の豪族であったことを示している。
このことは、在地に残る伝承が裏付けている。
大門の城跡分布図 (国土地理院)
 大門の戦国譚で有名なのは津之下の光円寺の開基にまつわる伝承である。光円寺の開基立円は、元河野(藤間とも)光円という武士で、父は大門明知山の城主河野刑部左衛門光重であったという。光重は隣国笠岡の城主平(陶山とも)国時と境争論から戦いとなり、負けて光円の弟光明と共に戦死した。この時、光円は出陣の留守を守って城に居たが、父と弟が戦死したのを「あぢきなく」思い、出家して立円と名乗り、一寺を建てた。これが今に津之下に残る浄土真宗海雲山光円寺だという(三吉町の光明寺ともいう)。また、一説に光円寺の開基光円は野々浜村城主塩飽太刀之丞の男で、僧となってなって一寺を草創して実名を以って寺号とした、これが津之下の光円寺だともいう(「西備名区」巻之三十一深津郡津之下村、野々浜村、大門村の条)。
 河野といい、塩飽といい代表的な海の豪族である。戦国期、「五ヶ」と呼ばれた福山市東南の沿岸部が当時海賊衆、或いは「警固衆」と呼ばれた海の豪族の支配下にあったのは事実と見ていい。
 しかし、彼等が大門の城山や明知山に拠ったとするのは、やや早計だろう。今は失われてしまった牛の首や防路の鼻、烏帽子山などの沿岸に立地した海賊城に拠っていたとするのが正しい。また、海賊衆と陸上の国人衆とは権益を異にし、明知山や城山に岡氏や藤井氏が居城した時期に、同時に烏帽子山などに海賊衆が拠点を構えたとしても矛盾しない。彼等は海から揚がる権益(関銭、帆別銭など)を手に出来ればよかったのである。河野(藤間、塩飽)氏の没落は、村上氏が笠岡に進出した永禄末年(一五六九頃)(注2)と考えていいだろう。
(注Ⅰ)「日本城郭全集」12、「大門町誌」など
(注2)「笠岡市史」第1巻中世編第三章

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