びんご 古城散策・田口義之

◆大門城山と岡氏(4)
                                    (福山市大門町) 〈208〉

大門城山から明知山を望む (矢印)
 神辺城の山名理興と大内・小早川の連合軍が大門の地をめぐって激しく争ったことは、江戸時代の文献からも知ることが出来る。
 『福山志料』などによると、付近には今回紹介した大門の城山と、もう一ヶ所明知山に城があり、城主藤井能登守入道皓玄の名を伝えている。
 藤井皓玄は山名理興の「二番家老」として知られ、理興から命ぜられてこの地の守備に当たった人物と見ていいであろう。
 明知山は、大門城山から東北約1キロに位置する中世城跡である。標高は大門城山より百メートル高い181メートル。土肥日露之進氏によれば、一の丸、二の丸の平坦地があり、昭和初年までは飲料用の井戸もあったと言うが(注Ⅰ)、現在は破壊されて僅かな平坦地を残すのみとなっている。
 明知山を乃美賢勝の拠った城と見る向きもあるが、賢勝は先ず大門城山に足場を築き、皓玄と戦ってこれを破り、明知山に本陣を移したとした方がいいだろう。
 大門城山の城主と伝える岡志摩守景勝は、乃美氏の城代として派遣され、神辺合戦で小早川勢の兵站を担った人物と見ていい。「小早川文書」などには見えない人物だが、岡氏は元就が隆景に付けた毛利家の家臣で、与三右衛門尉元栄は永く隆景の股肱の臣として活躍した。景勝はおそらくその一族で、隆景から「景」の一字を拝領して景勝と名乗ったものであろう。
枝広城址に残る石塔の残欠
 景勝の名が、隆景関係の文書・記録に現れないのは、或いは、皓玄との戦いで戦死した為かもしれない。『福山志料』によると、大門湾には「ホテノ渡」というところがあり、この地で合戦があった時、志摩守がこの渡りで弓を射られて死んだと伝える。言うまでもなく、その合戦とは皓玄との戦いで、志摩守は善戦空しく討ち死にし、以後歴史の闇に埋もれてしまったのかもしれない。
 皓玄との戦いは、最終的には乃美賢勝の勝利に終わった。天文十六年(一五四七)四月、小早川勢は、明知山から北西2キロの清水山で理興の兵と戦い、これを破った。これが有名な「坪生要害」の合戦で、小早川勢が本陣を置いたことから「幕山」の地名が生まれた。皓玄との戦いは、天文十六年四月までには決着が付き、小早川勢の坪生進軍となったものであろう。或いは坪生要害に立て篭もって小早川勢と戦った理興の部将こそ藤井皓玄であったのかも知れない。
 神辺城をめぐる戦いは、天文一八年(一五四九)九月、山名理興が城を棄てて出雲に逃走したことによって幕を閉じた。乃美賢勝の大門在城も合戦の終了と共に終り、大門城山も賢勝の退去とともに使命を終え、廃城になったものと考えられる。
(注Ⅰ)『日本城郭全集』12

備陽史探訪の会
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