びんご 古城散策・田口義之

◆大門城山と岡氏(3)
                                    (福山市大門町) 〈207〉

大門貝塚
 天文十二年(一五四三)の暮からはじまった「神辺七年の合戦」で、小早川氏が当時「五ヶ」と呼ばれたこの地方に一城を構えたのは前に述べたように事実である。その証拠が左の文書だ。
「外郡の内五ヶの事、無主たるの条、竹原方に対して預け遣わさるべく候、然らば彼の在所に於いて一城これを執り付け、堅固に相抱えらるべきの由、家来老者中に対して申し渡さるべく候、彼の衆の事、海上通路輙わつべくの条、其の心を得られ、分別候様、これを申し与えらるべき旨に候、恐々謹言
八月七日 興滋(花押)
     隆著(花押)
     隆満(花押)
 弘中三河守殿    」
 (小早川家証文四三四号)
 「家来老者中」に申し渡すようにとあるのは、当時竹原小早川家を継いだ元就の三男隆景は「徳寿丸」と呼ばれた元服前の少年で、実権は彼等「老者中」が握っていたためである。
 大内氏は、大門を含む「五ヶ」を竹原小早川氏に預けて一城を「執り付け」させ、神辺城攻略の足掛かりにしようとしたわけだ。そして、この作戦が実行に移されたことを示す文書が、左の大内義隆書状(浦家文書八号)である。
城山に残る土橋
 「去年四月以来在城、辛労察せしめ候、当時其の境心元なきの間、油断あるべからず候也、謹言
十二月二二日義隆(花押)
    乃美小太郎殿」
 乃美小太郎は「賢勝」といい、小早川氏の一族で、後に小早川隆景股肱の臣として大活躍した人物である。この文書には年号がないが、同日付で義隆の重臣が連署で賢勝に宛てた書状(浦家文書十四号)には「天文十五年十二月二二日到」とあり、天文十五年(一五四六)のものと判断できる。「去年四月」とあるから、小早川氏が「五ヶ」に一城を築いたのはその前年、天文十四年四月だったことが判明する。
 賢勝がこの地に派遣された天文十四年(一五四五)は神辺城の山名理興の旗色が次第に悪くなってきた時期である。前年までは各地に出兵して大内方の国人衆を脅かした理興であったが、同年七月、理興救援のため南下した尼子軍が備後布野(三次市布野町)で毛利勢に阻止されると守勢に転じ、大内勢を城下に迎え撃つ情勢となった。
 当時、理興と同じく尼子に組した周辺の諸勢力は神辺城北方の今大山城に宮氏、西方の備中鴨方に細川氏がいて、理興と連携して大内・毛利勢に当たろうとしていた。神辺城南方の「五ヶ」は理興の柔らかい「脇腹」にあたり、ここに「海路」に通じた竹原小早川氏に一城を築かせ神辺城攻略の前進基地にしようとしたのはまことに時宜を得た作戦であった。しかし、篭城した乃美賢勝にとっては生易しい戦いではなかった。その様子は大門城山をはじめ現地に残された中世山城跡や、江戸時代に記録された伝承からも知ることが出来る。

備陽史探訪の会
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